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そこに山と金があるから

徳川埋蔵金の真実。歴史に埋もれてしまった本当の埋蔵場所はどこなのか?

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最近『徳川十五代 知れば知るほど』監修 大石慎三郎(学習院大学名誉教授/徳川林政史研究所所長)を読みました。
初代将軍 徳川家康から、秀忠、家光、家綱、綱吉、家宣、家継、吉宗、家重、家治、家斉、家慶、家定、家茂、15代将軍慶喜まで。その歴史、260年以上!
全員の名前と順番分かる人、尊敬します笑

本題に入る前に徳川豆知識を少々!

その後の徳川歴代当主は

16代 徳川家達(いえさと)という方です。
後に貴族院議長に就任しました。

17代 德川 家正(いえまさ)

現在は18代目 徳川恒考(つねなり)氏で、徳川記念財団を設立しています。

19代目は恒考氏の息子 徳川家広さんです。
1965年生まれで翻訳家、著述家などを行っています。

慶應義塾大学を卒業後、ミシガン大学で経済学修士号を取得。その後コロンビア大学大学院政治研究科を終了して、政治学修士号を取得。

2006年、両親の反対を押し切って、11歳年下のベトナム人女性と結婚。

『狸親父』と言われていた徳川家康の面影が残ると言われていて『徳川家康の生まれ変わり』とされています。


出典www8.kobe-np.co.jp

似てるというか、肥えてるだけのような・・・

 

徳川御三家の現在は

徳川御三家(とくがわごさんけ)は、江戸時代において徳川氏のうち徳川将軍家に次ぐ地位を持っていた3家のこと。将軍家に後嗣が絶えた時は、御三家から養子を出す役割もある。

尾張徳川家

尾張徳川家当主 22代 徳川義崇(よしたか)

1961年8月生まれ。
学習院大学経済学部経済学科卒業。
公益財団法人徳川黎明会会長、全国美術館会議副会長、名古屋徳川美術館館長、八雲産業代表取締役社長、名古屋市博物館協議会委員、日本博物館協会理事、名古屋大学参与。
資産管理運営会社の代表取締役を務め、現在徳川一門で最も裕福なのがこの『徳川尾張家』だそうです。

 

水戸徳川家

水戸徳川家当主 16代 徳川 斉正(なりまさ)

1958年生まれ。慶應義塾大学商学部卒業。

財団法人水府明徳会会長理事。公益財団法人徳川ミュージアム理事長。東京海上日動火災保険株式会社執行役員。水戸藩開藩400年記念事業推進委員会会長、公益財団法人水戸育英会総裁、公益財団法人山階鳥類研究所理事、公益財団法人三徳庵理事。

 

紀州徳川家

紀州徳川家 19代当主 徳川宜子(とみこ)

1956年生まれ。東洋英和女学院短期大学卒業。

建築家。

紀伊徳川家当主としてインタビューを受けた際、『いつの頃やら、何か自然発生的に、気がついたら、独身の私が当主におさまっておりました』『この先、紀伊家がどうなるかですって。それはもう、自然の流れにお任せするしかないのかな、と思っております』と語った。

紀州徳川家は約1500億円の資産を擁する大富豪でしたが、宜子さんのお祖父さんにあたる徳川頼貞さんが1ヶ月に1億円から2億円という凄まじい浪費を何十年も続けた結果、没落してしまいました。
…1500億という大金、一代で使い切れるんですね笑笑

 

というように徳川家康の子孫たちは今でも健在で、年に1回は交流があるようです。そこでは江戸時代に交流のあった武将の子孫なども参加するようで、ロマンあふれる不思議な会ですね!

 

 

それでは本題です!

徳川家260年で最大の謎とされるのが時価3,000億円ともいわれている

『徳川埋蔵金伝説』

4代将軍家綱の時代から常に財政難だった江戸幕府に隠すほどの金があったのか?などの疑問が残りますが、3,000億という途方もない額は夢とロマンがありますね!

徳川埋蔵金とは

1868年4月、幕末の江戸城無血開城の際に、明治新政府は幕府御用金を資金源として期待していたが、城内の金蔵は空であった。
元幕府勘定奉行の小栗上野介などが、幕府再興の際に使うために江戸城御金蔵から有り金を全て持ち出して、赤城山などの北関東のどこかに埋蔵し、隠したとされるもの。

皆さん憶えてらっしゃいますか?
バラエティー番組「ギミア・ブレイク」内の企画としてスタートした『徳川埋蔵金プロジェクト』当初は「超能力で宝探しをしよう」という発想で始まったが、コピーライターの糸井重里氏を隊長としたプロジェクトは本格的なものへと発展。同番組(スペシャル含む)での発掘は7度に渡り、視聴率20%を超える人気企画となりました。

大昔ワクワクしながら観た記憶が有ります。
糸井重里が中心となって行われ、テレビ番組で数度に渡りスペシャル放送されたので記憶している人も多いはず。
1990年、群馬県の山奥で何台もの重機が導入されプロジェクトチームを結成、直径100m、最深部で60mという大穴を開けて、大がかりな土木工事を行いました。
当時一緒にテレビを観ていた父が一言、『見つかったらテレビの放送前に新聞に載る』
まあ間違ってはいないけど夢がない言葉ですね。

 

徳川埋蔵金、そのの在りかを指し示す歌があるとされている。それが

かごめかごめ

聞いたことがないという人はいないであろう程の有名な歌。
実はこの歌、ただの童謡ではなく、徳川埋蔵金の隠し場所の在りかを示すために残した歌だと言われています。

では、その歌詞を改めて見てみましょう。

かごめかごめ

かごのなかのとりは

いついつでやる

よあけのばんに

つるとかめとすべった

うしろのしょうめんだーれ

 

では解説していきます。

 

 

かごめかごめ

「かごめ」とは「籠目」のこと。
つまり竹で編んだ籠の目のことです。

籠の一つ一つの目は、ユダヤの象徴、ダビデの星(六芒星)の形をしています。徳川埋蔵金もまたユダヤと縁があるのでしょうか?

 

かごのなかのとりは

「籠の中の鳥は」
籠の中の鳥とは「籠の中の鳥居」のこと。
徳川が関東で建てた神社や仏閣を地図上で線で結ぶと六芒星が浮かび上がる。

その六芒星の中心にあるのが 日光東照宮 なのです!

日光東照宮

 

ここは江戸幕府の初代将軍、徳川家康公が祀られ、家康公の遺体が奥の院にある宝塔の下に葬られているという場所。

 

 

これ私がペーパークラフトで作った日光東照宮 陽明門
自分で言うのもなんですが、かなり力作だと思います笑

 

いついつでやる

「いついつ出やる」
埋蔵金はいつ出てくる?という意味なのでしょうか…

 

よあけのばんに つるとかめとすべった

「夜明けの晩に鶴と亀がすべった」
日光東照宮には鶴と亀の像があり、これらの像に朝の光が当たってできた影のことを表しているのです。

 

朝の光が当たって出来た影の示す方向には「見ざる、言わざる、聞かざる」の彫刻があり、

 

この三匹の猿の見ている方向に眠り猫の門があります。

その先の階段を上って行くと、徳川家の墓があるのです。

 

うしろのしょうめんだーれ

「後ろの正面だあれ」
これは、徳川家の墓の後ろに祠があることを暗示。
そこには、篭目(六芒星)のマークが刻まれています。

しかし、よく見ると六芒星は上が欠けていて、その形は、まるで真下を指しているように見えます。
そして、日光東照宮の近くには、徳川のお墓とほこらがある。
そこの下に徳川埋蔵金が埋まっているのか。

つまり、ここが徳川埋蔵金の本当のありかなのではないでしょうか?

 

実際に地質学上の調査でも99%の確立で、土や石ではない『何か』が埋まっていることが分かっているらしいです。

家康の墓、重い石段が重なっていて重機か爆薬でも使わないと開けられないです。

ですが掘ることができません。

なぜなら 日光東照宮が国宝 だからです。

それに、そこは国宝がある場所なので1%でも埋まってない可能性があるのなら、国宝で世界遺産でもある場所に手を加えるわけにはいかないからです。

 

世界遺産登録の目的は『保護』ですから。

ただ、それは表向きの理由で、掘れない本当の理由は、歴史が変わるものが出てくる可能性が高いからのようです。財宝が純粋に大判小判などの金銀財宝だけなら問題はありません。

しかし今まで語られてない事実が出てきたり、歴史が変わってしまうような代物が出てきてしまったら…
日本だけでなく、世界中で歴史を書き換えなくてはならない事態になります。そうなれば、これまで常識とされてきた歴史が実は間違いであり、信用されなくなる恐れがあるのです。

宝があるかもしれないから掘る=通らない×

歴史の調査で掘る=歴史が変わる可能性があるものが発掘される可能性があるので×

知らなくていい歴史は表に出さない。『触らぬ神に祟りなし』ということなのでしょうか…

そうなると、徳川埋蔵金の場所は、日光東照宮ではなく、個人で発掘することの出来る場所の方がいい気がしますね…

しかしなぜ、ラジオもテレビも何もない時代に、しかも関所で人の行き来が制限されていた時代に、『かごめかごめ』が日本全土で広まったのでしょうか?

その鍵を握る人物が松尾芭蕉です。

 

天下統一を果たした徳川家康が、世界で初めて成し遂げたものは何でしょうか?

それは「忍者部隊」です。

家康は忍者の養成機関を作り上げました。

そして、その長を務めたのが服部半蔵です。

家康は、その功績を称え、服部半蔵に与えた地名が今でも残っています。その地名が現在の皇居(元江戸城)にある門の一つ「半蔵門」です。大きな功績を残した半蔵は、徳川家から褒美を貰うことになります。その時に半蔵が求めたのが「自由」でした。

家康の許しを受け自由の身になった半蔵は、日本中を旅します。

この時に使った名前、それが松尾芭蕉なのです。

服部半蔵=松尾芭蕉だったのです。

当時は関所があり、現在のように自由に旅はできませんでした。
関所を越えて他の地域に行く=現在で海外に行く、に等しかったようで、当時は自由にどこでも行けなかった時代でした。半蔵が日本中を旅して回れたのは、家康という最高権力者の許しがあったから。

また、当時の道は現在のような舗装された道ではなかったので、山道を歩くのははおろか平坦な道を歩くのでも非常に大変でした。

そんな状況でも芭蕉は1日に数十キロ~数百キロ移動していたことがわかっています。
当時の平均寿命は50歳くらい。芭蕉は当時46歳。決して若くはありません。むしろかなりの高齢です。
そんな高齢の人間が、整備もされていない道を1日で数十キロ~数百キロ移動するなど、どう考えても普通の人間には無理なことです。

 

なぜ、芭蕉にはそれが可能だったのでしょうか?

それは、松尾芭蕉(服部半蔵)は特殊な訓練を受けた忍者だったからです。芭蕉は、ただ俳句を作るためだけに「奥の細道」の旅に出たわけではありません。

実は『かごめかごめ』の唄を全国に広める為に旅をしていたのです。
その理由は、各地の大名に埋蔵金、すなわち徳川家にはまだまだ財力があるということを示し、反乱しても無駄だと思わせるためです。

こうしたことから『かごめかごめ』は、ただの童謡ではなく、徳川家の埋蔵金のありかを示した唄だったというわけです。

信じるか信じないかはあなたしだいです。笑

もし、埋蔵金が誰でも掘れる場所から発見された場合の所有権はどうなるのか?
簡単にまとめると、

徳川埋蔵金だった場合
①埋蔵金の所有権は現在の政府にある。
②遺失物法の規定により埋蔵金の5~20%に当たる報労金が支払われる。
③埋蔵金現物を貰うことも法律上可能だが、その判断は政府に委ねられる。

徳川埋蔵金であるという確証が得られなかった場合
①遺失物として所管の警察署長より公告されます。
②所有者の申し出が無い場合、埋蔵金の50%に相当する額の報償金が支払われます。
③発見場所の地権者と発見者が異なる場合、報償金は両者の間で折半することとなる。
です。

埋蔵金が3,000億円だった場合、最低でも15億円、最高は1,500億円。人生は激変しますね!

私は金剛山に登っている時、よく山の斜面を見ています。
もしかしたら、山の斜面にきらりと光る小さなものを発見して、その奥に大きな財宝が眠っているかもしれないからです…

ちっさっ笑

徳川埋蔵金の真実。歴史に埋もれてしまった本当の埋蔵場所はどこなのか?でした。

最後まで読んで頂きありがとうございます!

 

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