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明智光秀が本能寺の変で織田信長に反旗を翻した本当の理由。真実とは。

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織田軍中でも重臣として取り立てられ、破格の抜擢を受けていた明智光秀。

信長はなぜ光秀を冷遇しはじめたのか。

そしてなぜ本能寺の変が起こってしまったのか。

 

光秀が謀反を起こした理由については、定説が存在せず、『日本史の謎』や『永遠のミステリー』などと呼ばれ、様々な人々が多種多様な説を発表しています。

諸説色々ありますが、私が1番信憑性のあると思った説を紹介したいと思います。

 

明智光秀

生誕:享禄元年(1528年8月17日)

死没:天正10年(1582年7月2日)享年55歳。

明智光秀の軍は、暴虐な織田軍中の中でも唯一の礼儀正しい品行方正な軍勢だったようです。当時の史料には『下々の京童(京都の住人)まで、「明智の者はものがちがう」というほどの威厳があった』とされています。

いかなる相手にも礼をもって接するというのが、光秀の変わらぬ信条でした。

無駄な血を流すのを嫌い、説得から相手を帰服させました。

そして光秀は王土王民『地上にある全ての土地は天皇のもの(王土)であり、そこに住む全ての人民は天皇の民である(王民)』という思想の持ち主で、全ての土地と民は天皇のもの、統治のみが信長の仕事と思っていたようです。

 

 

しかし、光秀が信長に仕えた時期は、信長の大量虐殺の時期と重なります。

光秀は『なぜ罪もない老若男女まで討たなければならないのか。信長殿には慈悲の心がないのか』と信長に対し深い疑問が生まれ始めます。

 

 

この頃から2人の歯車は少しずつ狂い始めます。

 

信長の生き神宣言

そして信長は比叡山焼き討ち直後に『この日本において予(信長)自身が生神であり仏である。予がおるところでは予が国王であり、天皇じゃ』と高言。

 

光秀はそれまで横領されていた天皇の直轄地を奪回し、時の正親町天皇に返上。天皇は大いに喜び、直々に光秀に馬や鎧の褒美を賜りました。日ごろから王土王民の思想を持ち、尊皇姿勢を示した行為でした。

 

しかしこのような行為が、『我こそは天皇なり』とする信長にとっては自分の頭越しに光秀と天皇の親密な関係を見せつけられ大いに気に入らなかったようです。信長の中で光秀は疎ましい存在に変わっていきます。

 

 

信長の絶対神宣言

極めつけは安土城内に建立した信長自身をご神体とする摠見寺門前に『絶対神』宣言を布告。

日本国君主、織田信長は、この安土の地に摠見寺を建立し、天下万民に対して次なる功徳を与えるものである。

①富者が当寺を礼拝すればますます富栄え、貧しき者、身分低き者が礼拝するば、富裕になるだろう。子宝に恵まれぬ者は直ちに子を得、長寿を授けられる。

②人はこの寺を礼拝すれば、80歳まで長生きをし、病気はすぐさま治り、健康と平安を得る。

③毎月、予の誕生日を聖なる日となし、当寺へ参詣せよ。

④以上、全てを信じる者には、必ずやあらゆる希望がかなえられるが、これを信じぬ邪悪な輩は現世においても来世においても滅亡することになる。ゆえに、万民は必ず大いなる崇敬を当寺に捧げねばならぬ。

 

 

この信長の狂気の沙汰は、光秀の王土王民思想と真っ向から対立するもの。

天皇の元で、天下の太平を求めていた光秀にとって、信長のこの行為は裏切りそのものでした。光秀は怒ります。

 

 

ここで信長と光秀の関係は完全に崩壊します。

 

光秀潰し

信長は自分を『天皇』や『生き神様』として敬おうとしない光秀を潰しにかかります。

 

そして信長の光秀に対する激しい折檻が始まります。

追い打ちをかけるように、光秀は丹波1国を没収され、代わりに毛利の国を切り取り次第与えるという命令を受けます。これは事実上、光秀を追放処分にしたも同然の処置でした。

 

敵は本能寺にあり

1582年(天正10年)6月2日、光秀の1万3000の大軍は京都・本能寺で信長を襲い、自刃させました。享年49歳。

光秀は本能寺の変直後に知人に当てた手紙にこう記しています。
『自分個人の恨みもあるが、天下国家の為に暴虐な信長に天誅を下した』と。

 

信長自身も本能寺の夜襲の騒がしさに目覚め、こう叫びました。

『これは謀反か。誰の企てだ』

近習の森蘭丸から光秀の謀反と聞いた信長は

『是非に及ばす(しかたない)』とつぶやいたそうです。

 

 

三日天下

本能寺の変の直後に、中国大返しにより戻った羽柴秀吉(豊臣秀吉)に山崎の戦いで敗れる。敗走の途中、京都小栗栖で農民に殺されたとされる。自刃ともいわれている。光秀が信長を討って天下人になってからわずか13日後のことであり、その短い治世は『三日天下』ともいう。

 

諸説色々ありますが、私はこの流れで本能寺の変が起こったと思っています。

歴史を紐解いていく。

なかなか面白いものです。

 

明智光秀が本能寺の変で織田信長に反旗を翻した本当の理由。真実とは。でした。



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