【第六天魔王】織田信長の冷酷かつ恐ろしすぎる大量虐殺の歴史の真実。

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戦国時代、最も全国統一に近づいた武将・戦国大名です。

『鳴かぬなら殺してしまえホトトギス』

ホトトギスをつかった俳句が有名です。

光栄の『信長の野望』シリーズも有名です。個人的に大好きでした。

 

織田 信長(おだ のぶなが)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。

尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男(一般に正室の生んだ男子のうち最も年長の子を指す)。

織田家の菩提寺であった三宝寺仰徳殿には細密な肖像画とされるものの写真が残っています。

 

 

自分を仏教勢力に対する最強の仏敵になぞらえて『第六天魔王』と自称した。

第六天魔王とは

仏教において仏道修行を妨げる魔のこと。『衆生が仏道にはいるのを妨げる者』を意味する。『第六天』とは仏教における天のうち、欲界の六欲天の最高位にある他化自在天をいう。『他化自在天』とは欲界・色界・無色界の三界における欲界の最高位。欲界の天主大魔王である第六天魔王波旬の住処。

武田信玄が比叡山復興をスローガンにしたので、『俺はそれを妨げてやるよ』と皮肉交じりに返したのが始まりのようです。

 

 

 

三英傑とは

織田信長(1534年 - 1582年)
『鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス』

豊臣秀吉(1537年 - 1598年)
『鳴かぬなら 鳴かしてみせよう ホトトギス』

徳川家康(1542年 - 1616年)
『鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス』

の3人のことです。

 

 

 

信長の最も有名な出来事が『本能寺の変』と『安土城建設』です。

 

本能寺の変

天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害。享年49歳。

ちなみに明智光秀にもホトトギスをつかった俳句が存在します。ご存知でしたか?
『鳴かぬなら 放してしまえ ホトトギス』
『鳴かぬなら わたしが鳴こう ホトトギス』です。

 

 

安土城

1576年(天正4年)標高199mの安土山に五層七階の天守閣をもつ豪華絢爛な本格的近世城郭を建設。

 

 

信長の天下布武を象徴する城だったようです。

安土城の五層七重の天守閣は、世界で初めての木造高層建築で、その高さ46mにも達する絢爛豪華な建物だったようです。イエズス会の宣教師も『このような豪華な城は欧州にも存在しない』と母国に驚嘆の手紙を送ったようです。

 

 

 

信長は『恨みを抱いた相手』にはいっさい容赦をしませんでした。49歳で亡くなるまでに、どれほどの人々を虐殺してきたのかまとめましたのでご覧ください。

 

 

比叡山焼き討ち

1571(元亀2年)年

朝井長政・朝倉義景らと、比叡山およびその山麓を舞台に激しい戦いを繰り広げた。信長が兵糧攻めを行っていた浅井・朝倉軍に対して比叡山延暦寺は援助を行った。信長は比叡山延暦寺に対し『味方をしろ。それか中立でいろ』と警告。しかし、比叡山延暦寺はこれを拒否。

信長は比叡山延暦寺の焼き討ちを決意します。
すべての堂宇は放火され、寺の僧侶はおろか山麓の町から避難してきた一般信徒も含む多くの人をことごとく殺害。この時、寺にいた女や子供も殺したとされている。

死者数は『信長公記』には数千人、ルイス・フロイスの書簡には約1500人、『言継卿記』には3,000~4,000人と記されている。

 

 

 

長島一向一揆殲滅

1574(天正2年)年
本願寺の反信長蜂起に伴って、当時の願証寺住持の証意や本願寺坊官の下間頼成の檄文によって長島でも門徒が一斉に蜂起。これに呼応して『北勢四十八家』と呼ばれた北伊勢の小豪族も一部が織田家に反旗を翻し一揆に加担。

この戦いにより、信長の異母兄である織田信広や弟の織田秀成など、多くの織田一族が戦死し、信長側の被害は『信長公記』では700~800人、『フロイス日本史』では1,000人ほどと記させている。

一揆衆は降伏を申し出たが信長は断固として許さず兵糧攻めを決行。

城を抜け出した男女1,000人ほどを射殺、あるいは斬り捨てた。

信長は、残る2つの城も幾重にも柵で囲み、火攻めにした。城中の2万の男女を焼き殺した。

 

 

 

浅井久政・浅井長政・朝倉義景の髑髏杯

 

元亀元年(1570年)、信長が浅井長政と交わした『朝倉への不戦の誓い』を破り、徳川家康と朝倉方の城を攻め始める。

室町幕府15代将軍足利義昭、武田信玄、浅井久政、浅井長政、朝倉義景、本願寺、延暦寺などの勢力が『反織田信長連合』を結成。信長包囲網を形成して信長に対抗しようとした。

その後信長との戦いにより信長包囲網は瓦解。

天正元年(1573年)一乗谷城の戦いで朝倉義景が自害、小谷城の戦いにより浅井久政・浅井長政が自害により浅井家は滅亡した。

天正二年(1574年)1月1日、織田信長は、前年討ち取った久政・長政・義景の頭蓋骨を薄濃(はくだみ、漆塗りに金粉を施すこと)にし、御肴として白木の台に据え置き、皆で謡い遊び酒宴を催した。『浅井三代記』ではこれらの髑髏を杯にしたとある。

 

 

 

越前一向一揆殲滅

1575(天正3)年

発端は織田信長に滅ぼされた朝倉氏の旧臣の多くが信長に降伏して臣従。朝倉氏の中で特に重臣でなかった桂田長俊が越前の守護代に任命されたことを他の朝倉氏旧臣は快く思わなかった。長俊と犬猿の仲だった富田長繁が長俊を滅ぼそうと考え越前中の村々の有力者と談合し、反桂田の土一揆を発生させた。

この一揆は3万以上の大軍にまで膨らみ、桂田長俊はあっけなく討ち死に、一族も全て処刑された。

その後一揆内一揆が発生。

一揆内一揆で指揮系統が乱れているところへ、織田軍の破竹の勢いの攻撃をまともにくらい、一揆勢は大混乱に陥り、壊滅。右往左往しながら山中へ逃げていった。信長は山に逃げた人々も容赦なく探索し、残らず処刑。

このときの一揆衆1万2250人以上が討ち取られ、さらに生け捕り分と殺害された分と合わせて3万から4万余といわれている。生け捕りにされた人々は尾張や美濃に送られ、近隣諸国で奴隷として売られていったようです。

 

 

 

荒木一党惨殺

天正6年(1578年)

羽柴秀吉軍に加わっていた荒木村重は有岡城にて突如、信長に対して反旗を翻す。

村重は有岡城に篭城し、織田軍に対して1年の間徹底抗戦したが、側近の寝返りや兵糧不足、期待していた援軍が来なかったことにより戦況は圧倒的に不利となった。

村重は『兵を出して合戦をして、その間に退却しよう。これがうまくいかなければ尼崎城と花隈城とを明け渡して助命を請おう』と言っていたが、単身で有岡城を脱出し、嫡男・村次の居城である尼崎城(大物城)へ移った。

信長は有岡城の城守をしていた荒木久左衛門(池田知正)ら荒木の家臣たちと『尼崎城と花隈城を明け渡せば、おのおのの妻子を助ける』という約束を取り交わす。織田方への人質として妻子を有岡城に残し、村重の説得を行ったが村重はこれに応じず。窮した久左衛門らは妻子を見捨てて失踪。信長は村重や久左衛門らへの見せしめの為、人質の処刑。

有岡城の女房衆122人が尼崎近くの七松において鉄砲や長刀で殺された。

京都に護送された村重一族と重臣の家族の36人が、大八車に縛り付けられ京都市中を引き回された後、六条河原で斬首された。

村重は天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変で横死すると堺に戻りそこに居住。豊臣秀吉が覇権を握ってからは、大坂で茶人として復帰。

 

 

 

高野山包囲

1581年(天正9年)年。

高野山が荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど信長と敵対する動きを見せる。『信長公記』によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した。

信長は和泉岸和田城主・織田信張を総大将に任命して高野山攻めを発令。

高野聖1,383名を逮捕し、伊勢や京都七条河原で処刑した。

 

 

人の命の重さは平等ではないのでしょうか。

恐ろしい時代ですね。

そして織田信長、恐ろしい男です。

ある意味天下を取らなくて良かった武将のような気がします。

【第六天魔王】織田信長の冷酷かつ恐ろしすぎる大量虐殺の歴史の真実。でした。



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