多賀谷重経 1000挺もの鉄砲隊を指揮した男。『唐入り』出兵をドタキャンした!?

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豊臣政権の五大老・家康も苦悩した文禄・慶長の役

その朝鮮出兵をドタキャンした勇気ある男のお話です!

 

諸大名たちが嫌がった朝鮮出兵

1592年に起きた朝鮮出兵、すなわち文禄・慶長の役。多くの大名がこの戦役への兵動員を躊躇する中、これを見事にすっぽかした男がいます。下総下妻(しもうさしもつま)城城主の多賀谷重経(たがやしげつね)です。

この戦役は、大名が負担する軍役が大きかったことでしられており、当時の史料によると諸大名への軍役負担は、四国や九州は石高1万石につき600人の動員、中国・紀州周辺では石高1万石につき500人、三河・駿河・伊豆は300人、越後・出羽については200人と決められていました。これらの規定から計算すると、動員数は総計で30万を超える大規模なものだったことが窺えます。この大動員には、あの徳川家康さえも頭を抱えていました。彼は最初にこの動員令が下ったとき、本多正信に『御渡海されますか?』と問われたが、『箱根を誰に守らせるのか』と答えて渡海を制止したといわれています。

 

 

上手く逃げた重経だったが…

そんな家康さえも判断に苦しんだ兵の動員だが、多賀谷重経という男はこれをまんまと免れます。正しくは免れたのではなくすっぽかしたのです。彼は1200人を引き連れて出陣することを命じられたが、その召集に応じませんでした。病気だったという噂もあるが、病気なら名代を立てるのが当時の常識、ただで許されるわけがない。この非常識な態度をとった多賀谷重経には、のちに過怠金が課せられたといます。

文禄・慶長の役は、文禄元年(1592)に始まって翌文禄2年(1593)に休戦(文禄の役)、慶長2年(1597)の講和交渉決裂により再開され、慶長3年(1598)太閤豊臣秀吉の死をもって、総動員数約30万人の日本対明の戦いは日本軍の撤退で終結します。

 

多賀谷重経 1000挺もの鉄砲隊を指揮した男。出兵をドタキャンした!?でした。





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