毛利家の『三矢の訓』の話。実は4本目があった!? 4本目の存在とは!?

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毛利元就

毛利元就の四男・元清(もときよ)の子である秀元(ひでもと)。

毛利家を支えた元就の孫の活躍とは。

 

秀吉を救った4本目の矢の存在

毛利元就(もうりもとなり)が臨終間際に残した“三矢の訓”。

これは元就が3人の息子の絆を3本の矢に見立てたもので、今も有名な逸話として語り継がれています。だが、実はこの話には大きな矛盾が存在し、元就が亡くなった1571年、長男・隆元は1563年にすでに死亡していたのです。そして元就が臨終間際のとき、隆元(死去)・春元41歳・隆景38歳と立派な大人になっている状態です。三矢が折れないのが少年であれば理解できますが、この年齢の男性なら三本の矢を束ねたくらいならそのままへし折ってしまうでしょう。

元就は59歳の時に“三子教訓状”という隆元・春元・隆景の三兄弟の結束を説く14箇条からなる教訓状を与えたことがあり、その中に『3人の仲が悪くなれば毛利家は滅亡する』という文章が書かれており、その教訓状が明治時代の教科書がきっかけで、その後脚色され“三矢の訓”になったといわれています。

 

毛利元就の子どもたち

そんな元就は男女合わせて12人の子をもうけており、その内の四男・元清(もときよ)の子である秀元(ひでもと)は、“毛利4本目の矢”といえるほどの功績を残しています。

実は秀元は豊臣秀吉の命を救ったことがあるのです。文禄の役で名護屋(なごや)に出陣していた秀吉が京都へ戻る途中、船が突然衝突事故を起こします。秀吉は海へ投げ出されましたが、それを助けたのが秀元でした。そのころ、秀吉は本能寺の変で和平を結んだままの毛利氏をいつか攻め落そうと考えていたが、その一族に命を救われ、考えを改めるようになります。もし、この一連の出来事がなければ、秀吉が死んでいたか、毛利家は豊臣家に潰されていたということになります。

毛利家に伝わる“三矢の訓”。まるで毛利家を支えた3人の息子、と思われがちだが、そこに孫である秀元の活躍があったことを忘れてはならない。

 

現代に残る

歴史の有名な話は

ほぼ創作。

 

毛利家の『三矢の訓』の話。実は4本目があった!? 4本目の存在とは!?でした。





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