天下人・豊臣秀吉 女好きの猿の死因に隠させた切なる願いとは!?

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ただの女好きというだけの男ではなかった。

日本で初めて『ハーレム』を作り上げた豊臣秀吉。

その秀吉の女好きに隠された真実とは・・・

 

太閤秀吉の死因は“腎虚”だった!?

1598年9月18日、太閣秀吉は後事を五大老の筆頭・徳川家康と前田利家に託し、さらに嫡子・秀頼のことはくれぐれも頼むと言い残してこの世を去った。享年62歳。

辞世は

『露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢』

でした。

死因は胃ガンや梅毒など諸説あるが、晩年の秀吉には腎臓機能が衰弱したとおぼしき症状が見られ、漢方でいうところの『腎虚(じんきょ)』によるものとする説が当時から有力でした。荒淫、つまり性交過多による消耗死ということになります。極端に言えば『やりすぎ』ということです。

確かにヒヒジジイのイメージはあるのですが、実際に秀吉は腎虚で死ぬほどの“好きもの”だったのでしょうか。

 

後継者を切望した秀吉

ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは著作『日本史』の中で、秀吉が300人の側室を抱えていたと語っています。話半分にしても大した数です。たぶん、日本で初めてハーレムを作ったのは秀吉でしょう。

やはり秀吉が生来“好きもの”であったのは間違いないのですが、彼がたた単純に性の捌け口としてだけ女性を集めていたというのはさすがに違うでしょう。天下人の座にまで登りつめた者として、血を分けた子にすべてを譲りたいと秀吉は考えていたのでしょう。そのため可能なかぎり数をこなした部分もあるのではないかと思います。

だとすると、聞けば苦笑しがちな死因にも、少なからず秀吉の悲哀が感じられます。その後秀吉の努力は報われ57歳の時、側室の茶々(淀殿)との間に秀頼が生まれます。

 

豊臣秀吉の言葉

『女狂いは慎め。決してこの秀吉の真似をしてはならぬ』

これは秀吉が関白の座を譲った秀次に向けた手紙に記されていた言葉です。自分のように女遊びが過ぎると失敗するぞという意味だが、秀次はその教えを守らなかったそうです。そして嫡子・秀頼が誕生した秀吉は、邪魔になった秀次を切腹に追いやり、秀次とともに多くの側室も共に処刑されてしまいました。

その結果秀吉は自身の死後、幼き嫡子・秀頼を盛り立てることなく、自身の権力を欲した徳川家康に政権を奪われてしまいます。

 

天下人・豊臣秀吉 女好きの猿の死因に隠させた切なる願いとは!?でした。





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