徳川家康の嫡男・松平信康は妻・徳姫の愚痴の手紙で殺された!?

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徳川家康はこうして将来を嘱望された嫡男を失った・・・

なぜ信康は父である家康の命により切腹させられてしまったのか。

妻・徳姫と姑・築山殿の関係は・・・

 

一通の手紙が信康の人生をどん底に叩き落とす

永禄2年(1559年)3月6日、松平元康(後の徳川家康)の長男(嫡男)として駿府で生まれた。母は瀬名義広の娘で今川義元の姪・築山殿。信康(のぶやす)は、17歳の初陣以来、数々の戦場で軍功を揚げ、将来を嘱望される存在だった。信康の正室は織田信長の娘・徳姫(とくひめ)でした。あるとき徳姫は、自分が信康と不仲であること、姑の築山殿が武田勝頼と内通していることなどを記した十二箇条の手紙を書き、父・信長に送ります。

手紙を受け取った信長は、ただちに徳川の重臣・徳川四天王の1人・酒井忠次(さかいただつぐ)を呼んで手紙の真意を確かめると、忠次は十二箇条中、十箇条までを肯定し、内容をほぼ事実と認めます。烈火の如く怒った信長は家康に対し、即時に信康と築山殿の処刑を要求、家康は断腸の思いでこれに応じます。将来有望な若き信康、享年21歳でした。当時の織田との力関係を考えれば、是非もない決断でした。

 

実は改ざんされていた!?徳姫の手紙

この一連の出来事の真相は、実際と異なるのではないかという説があります。実は徳姫が信長に送った手紙の内容は、自分に子がないからと側室をつくった信康に対する愚痴をしたためた内容にすぎなかったという説です。

いつまでも嫡子が生まないことを心配した姑の築山殿が、信康に元武田氏家臣の浅原昌時の娘や日向時昌の娘など、部屋子をしていた女性を側室に迎えさせたため、築山殿と徳姫が不和になったという話もあります。

では、それがどうして信康や築山殿を窮地に陥れる内容にすり替わったのか。これには、忠次ら浜松城派(家康派)と石川数正(いしかわかずまさ)ら岡崎城派の派閥抗争が背景にあったと考えられています。つまり、忠次がたわいもない愚痴の手紙を改ざんして、対立派閥を信康ごと葬り去ろうとしたというのです。信長に真意を問われ、わざわざ信康の不利になる答えをしたあたりも怪しい。

いずれにしても家康は、後継者として期待していた嫡男を自らの手で葬る羽目になったのでした。

 

酒井忠次の子・家次

その後、家康の痛恨の思いは、忠次の上に跳ね返ってきます。
忠次の子・家次が家康に仕え、俸禄が少なかった時、隠居していた忠次が家康に加増を願い出ますが、家康はまじまじと忠次の顔を見て、
『そなたでも、子が可愛いか』
と言います。忠次は低頭して引き下がったそうです。

嫡子の命を救う行動をしなかった忠次、忘れなかった家康。まさしく因果応報。

 

徳川家康の嫡男・松平信康は妻・徳姫の愚痴の手紙で殺された!?でした。





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