お由羅騒動 跡目相続をめぐって家中を2分した悪役不在の抗争劇の真相!

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お由羅騒動(おゆらそうどう)は文政7年(1824)~嘉永4年(1851)に薩摩藩で起こったお家騒動です。

泡と消えたお由羅の野望

これは幕末の播磨藩のお家騒動で、【お由羅くずれ】【嘉永朋党事件(かえいほうとうじけん】とも呼ばれています。

28代藩主・島津斉興(しまづなりおき)の跡目をその世子(後継)・斉彬(なりあきら)にするか、側室・お由羅の子の忠教(ただのり・久光)にするかが原因で生じたお家騒動です。

英明の聞こえ高かった斉興は、嘉永2年(1849)に齢(よわい)40歳を数えたが、斉興は依然として隠居せず、家督を譲らなかった。

この頃、お由羅(お由良とも)の子である忠教(久光)を擁立しようとする党派の動きが活発になってきた。その派は、藩の天保の改革に手腕を発揮した調所笑左衛門(ずしょしょうざえもん・広郷(ひろさと))の余党で固められていた。(調所は前年、密貿易の責を問われ自刃している)

しまも、斉彬の5男2女のうち長男を除く子たちが相次いで若くして死亡したので、斉彬派はこれを反斉彬派の呪詛(じゅそ)によるものだとみて憤激した。

かくして、お由羅と忠教、家老の碇山将曹(ていざんしょうそう)、兵道家・牧仲太郎(まきなかたろう)の暗殺が、斉彬派によって企てられたが、事は露見して、40数名が酷刑に処されるという大疑獄事件となりました。

だが、このとき4人の者が筑前に走り、黒田長溥(くろだながひろ・島津重豪(しまづしげひで)の子)に提訴した。長溥は幕府に働きかけ、斉興に隠居をすすめる旨の内諭(ないゆ)を下させた。こうして斉興は嘉永4年に隠居して世子・斉彬が襲封(領地を受け継ぐ)し、お由螺の野望は泡と消えた。斉彬擁立派は多数弾圧されたが、それが斉彬の襲封を早めたといっていい。これがお由羅騒動の全貌です。

お由羅騒動 跡目相続をめぐって家中を2分した悪役不在の抗争劇の真相!でした。





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