天保の改革 老中・水野忠邦が行った厳しすぎた享保の改革の結末。

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超わかりやすい天保の改革の解説記事を書きました!

享保の改革・天保の改革・寛政の改革を総称して【江戸の三大改革】と呼ばれています。

寛政の改革が終わり、19世紀前半の文化・文政の時代を経ると、庶民生活はいっそう華美になっていった。しかし、天保期になると、飢饉や一揆、打ちこわしなどがおこり、元幕府の役人が乱を起こすなど、社会は大きく混乱した。アメリカ船のモリソン号が通商を求めてきたのを打ち払った一件にみられるように、外国との関係も緊張を増し、水戸藩主の徳川斉昭(なりあき)が12代将軍・家慶への上書の中で、『内憂外患(ないゆうがいかん)』と表現したような状況になっていった。

この時期、老中として天保12年(1841)から14年までの2年余り、幕府を中心とする支配体制の強化に乗り出したのが水野忠邦でした。忠邦が主導し、享保・寛政の両改革を手本として行った改革を【享保の改革】といいます。しかし、改革が厳しすぎて反発を招き、水野忠邦はわずか2年で挫折し老中を罷免されてしまいます。

念願の老中になる

寛政6年(1794)、備前(佐賀県)唐津藩主の子として生まれた水野忠邦(みずのただくに)は、少年時代から老中になりたいと考えていたという。

19歳で唐津藩主になったのち、多大な交際費を使うことで、寺社奉行、大坂城代、京都所司代などを経て、天保5年(1834)3月に本丸老中、そして天保10年(1839)に現在の首相にあたる老中主座となりました。

 

スタートは倹約令

天保12年(1841)閏1月、将軍・大御所として50年以上も君臨してきた11代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)が死去すると、同年5月に忠邦を中心に政治改革が始まります。

家斉時代、将軍や大奥の華美な生活で、財政赤字は膨大となっており、それを補うための貨幣改悪によって物価が高騰していました。そのうえ、数年間続いていた【天保の大飢饉】も加わり、人々は大変苦しんでいました。そんな中、天保8年(1837)2月、大坂で大塩平八郎(おおしおへいはちろう)が乱を起こすと(【大塩平八郎の乱】)、各地で同様な反乱や一揆が続発しました。一方で家斉の贅沢な生活は庶民にまで影響を与え、化政文化にみられるような華やかだが退廃的な風潮が世の中に満ちていた。

そこで忠邦は、享保・寛政の改革にならい、緊縮と綱紀粛正(こうきしゅくせい)をめざして、まず【倹約令】を出します。

贅沢品の販売、花火、混浴、歌舞伎、寄席などの禁止・制限を各階層全般に渡って命じました。

また、作家の為永春水(ためながしゅんすい)や柳亭種彦(りゅうていたねひこ)などの著作も風紀を取り乱したとして厳しく処罰しました。

その取り締まりを担当したのが、南町奉行の鳥居耀蔵(とりいようぞう)でした。

 

経済政策

忠邦は江戸の物価を下げるため、天保12年(1841)に株仲間の解散を命じたが、かえって市場が混乱し、効果はなかった。

翌年には、【諸物価引き下げ令】を出し、物価のほか手間賃、家賃などを強制的に引き下げさせた。しかし、商人たちはそれに対抗して量を減らすなどしたため、江戸の豆腐はどんどん小さくなっていったそうです。

江戸・大坂周辺の合わせて50万石分の土地を幕府の直轄地にして、財政の安定や対外防備の強化をはかるべく【上知令(あげちれい)】を出した。しかし自分の土地が直轄地になってしまう大名や旗本、また彼らに貸した金が返ってこなくなると心配した豊かな農民や町人の反発を招き、忠邦は失脚に追い込まれます。

当時の落書に、

『白川の昔の浪にひきかへて 浜松風(水野忠邦は浜松藩主)の音のはげしき』

『寛政のころへ浮世は戻れども 戻らぬものは孝と借金』

というものがあります。天保の改革が、寛政の改革への復帰をめざし、これを超える厳しさで展開していたことを詠んでいます。

また当時の気どりとして、

有徳院様(吉宗) 気どり 当将軍

松平越中(定信) 気どり 水野越前(忠邦)

大岡越前 気どり 矢部駿河(定謙)

という落書も見られました。

 

農村対策と印旛沼干拓

忠邦は、荒れた農村を再建するため、農民の出稼ぎを禁じ、強制的に村へ送り返す【人返し】政策を実施。

また印旛沼(いんばぬま・千葉県)の干拓により、新田をつくるとともに、利根川から印旛沼経由で江戸に至る水上ルートを開発しようとします。しかし、排水の便が悪く難工事が続き、忠邦の失脚でまたしても中止となりました。

 

対外情勢の変化と軍制改革

天保の改革が始まった翌年の天保131842年、隣国の清がアヘン戦争でイギリスに敗れて南京条約を結びました。これにより香港はイギリスに割譲(かつじょう)され、清は多額の賠償金を支払わされて開港を余儀なくされました。この事実を聞いた忠邦は、へたをすると戦争の契機になる【異国船打払令】を緩和して、【薪水給与令(しんすいきゅうよれい・外国船が来たら薪と水、食料を与えて帰らせる)】を出します。

同時に、江戸湾や周辺の海防強化をはかり、洋式軍事訓練を行うなど、軍事技術の近代化にも努めた。

 

わずか2年で終わった改革

天保の改革は、大塩平八郎の乱など国内情勢の悪化と、アヘン戦争など対外情勢が急をつげていたことに対処するために行われた。だが、あまりに厳しすぎたことで、わずか2年で失敗の終わり、かえって幕府権威の衰えを示すこととなってしまった。

改革の最中は、激しい倹約令によって、江戸の町は火が消えたように淋しくなり、人々の不満も高まっていった。そこで忠邦が老中を罷免されると、彼の屋敷前に集まった人々は、罵声を浴びせ石を投げつけたそうです。

 

水野忠邦は2年余りで失脚し、天保の改革も失敗に終わりました。

天保の改革の失敗は、幕府の弱体を示すものでした。

江戸時代の三大改革は、社会の変化に対して、幕府権力を強化し、国家機能・公共機能を拡大してこれに対応しようとするものでした。

しかし、時代とともに経済は拡大し、生活水準は向上しました。改革政治が後になるほど短期間で終わっているのは、享保の改革の倹約・緊縮の政治理念が、現実の社会の前で力を失っていたことを示すものだともいえます。

幕府は時代の流れに付いていけず、力を失いつつありました。265年間続いた江戸幕府の幕が下りるまであと25年。

天保の改革 老中・水野忠邦が行った厳しすぎた享保の改革の結末でした。





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