寛政の改革 田沼政治からの脱却を進めて、幕政改革を行った松平定信の手腕。

投稿日:

誰でも理解できる、超わかりやすい天保の改革の解説記事を書きました!

享保の改革・天保の改革・寛政の改革を総称して【江戸の三大改革】と呼ばれています。

松平定信(まつだいらさだのぶ)は、11代将軍・徳川家斉政権の老中となり、祖父である8代将軍・徳川吉宗【享保の改革】を手本とし、反田沼派の本多忠籌(ほんだただひろ)や松平信明(まつだいらのぶあき)、戸田氏教(うじのり)らの幕閣を起用し、商業資本との接近を強めた田沼意次(たぬまおきつぐ)の政治を修正しつつ、享保の改革の延長上に自らの改革を位置つけた。定信が天明7年(1787)から寛政5年(1793)までの約6年間に行ったこの改革政治を【寛政の改革】といいます。

田沼意次への恨み

【寛政の改革】を行った松平定信は、1758年に生まれた。

8代将軍・吉宗の息子の中でも聡明といわれた御三卿の田安宗武(たやすむねたけ)で、その7男だった定信も幼い頃から俊英(しゅんえい)だった。

明和8年(1771)に父が死に、病弱な兄が田安家を継いだ3年後、定信は白河藩主・松平家の養子になるよう幕府から命じられた。これは才気ある定信が、田安家を継いで、もしも将軍になることがあると困ると考えた田沼意次(たぬまおきつぐ)の画策によるものだった。

 

田沼を失脚させ老中に

定信は反田沼勢力を集め、江戸で大規模な打ちこわしが起こったことなどを田沼の責任として追及し、田沼派を完全に失脚させた。かくして天明7年(1787)6月に老中となると、翌7月に改革宣言を行い、『毎々享保年中御規定御作法等御穿鑿被仰出(ことごときょうほうねんちゅうおきじょうおさほうとうおせんさくおおせいださん)』(『御触書宝歴集成(おふれがきほうれきしゅうせい)第1938号』と、ことごとに享保の改革の法令などを参考にして、改革政治を進めると述べています。祖父・吉宗の【享保の改革】を手本とし、幕政改革を行っていく。

 

田沼政治とは

田沼は、幕府財政の立て直しのために、発達してきた産業資本を利用しようとした。同業者組合を株仲間として公認して儲けさせるかわりに、運上金(うんじょうきん)や冥加金(みょうがきん)という営業税を徴収した。また、これまで制限してきた長崎貿易を拡大して貿易の利益を得た。さらに商人の力を借りた印旛沼(いんばぬま)・手賀沼(てがぬま・千葉県)の干拓による新田開発のほか、蝦夷地(えぞち・北海道)の開拓も計画。

しかし、こういった商業重視政策の推進は、必然的に商人と結びつくことになり、【賄賂政治】と批判され、田沼自身は【賄賂の問屋】と誹謗されました。

 

農業主義への復古

田沼による商業重視の政策に批判的だった定信は、緊縮財政と農業重視を政策の中心とした。

そのために、【天明の大飢饉】で荒廃した農村の復興にとりかかった。

定信は白河藩主時代に、天明の大飢饉で餓死者を1人も出さなかった。これは【囲米(かこいまい)】といって、農村に義倉(ぎそう)・社倉(しゃそう)を設けて、凶作に備え食料を貯えさせたからです。

政権を握ると定信は、これを全国で実施させました。

当時は飢饉と貧困から土地を捨てて都市へ出る者が急増し、農村に荒れ地が広がっていました。これに対し、田畑を復活させるため、荒廃地を耕作する農民に補助金を出した。また、都市の農村出身者を村に帰すために金を支給する法令を出した。

これを【旧里帰農令(きゅうりきのうれい)】といいます。

【公金貸付】制度をつくり、農民の子育てに教養費を補助し、農村人口の増加を促したりするなど、農村対策にかなりの力を入れた。

 

江戸の都市政策

天明の大飢饉などで貧農がドッと江戸の町に流れ込み、そうした困窮者が中心となって激しい打ちこわしを起こし、治安も悪化していた。定信はこれに対し、物価の引き下げを命じるとともに、町々の町費を節約させ、【七分積金】という貧民救済制度をつくり、石川島に人足寄場(にんそくよせば)を設置した。

人足寄場は、刑犯罪者や無宿人などを収容する施設で、職業訓練を行い、手に職をつけさせて社会に戻した。

この施設の設置に尽力したのが、時代劇でおなじみの【鬼平】こと火付盗賊改役(ひつけとうぞくあらためやく)の長谷川平蔵(はせがわへいぞう)だといわれています。

また、幕臣のために彼らの借金を帳消しにする【棄損令(きえんれい)】を出した。棄損令によって破棄された借金は巨額で、118万両ともいわれています。金を貸していた多くの札差(ふださし)がこのとき破産したとされているが、これによって幕臣の生活が楽になったのは一時的でしかありませんでした。

 

教育改革

改革前、拝金主義(はいきんしゅぎ)が横行し、武士道の退廃が顕著になっていました。定信は、武士の威信を取り戻し身分秩序を守るために、武道と学問を奨励しました。

当時、聖堂学問書(林家塾)では、古学派(荻生徂徠(おぎゅうそらい)などの学派)や折衷学派(せっちゅうがくは・儒学のさまざまな学派を折衷した学派)が盛んになっていた。そこで朱子学を正学に定め、聖堂学問所において正学以外の異学の講義を禁じた。これが【寛永異学の禁】です。

この政策により、諸藩の藩校や寺子屋まで朱子学が浸透していきました。

 

風俗・思想の統制

1790年に【出版統制令】を出し、風俗を乱す洒落本・好色本や政治批判・時事風刺を行った出版物を禁じました。これによって翌年、山東京伝(さんとうきょうでん)は手鎖50日、版元の蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)は家財半減とされました。

1792年には、日本と取り巻く情勢を論じた『三国通覧図説』と、ロシアの南下を警告して海防論を展開した『開国兵談』の作者・林子平(はやししへい)が、禁固刑となりました。

この点でも、工藤平助(くどうへいすけ)の『赤蝦夷風説考(あかえぞふうせつこう)』から、蝦夷地の開拓やロシアとの交易の可能性を調査した田沼とは異なる対応でした。

 

改革の批判

改革の成果はある程度あがったが、厳しい倹約令や、華美な服装・男女混浴・ぜいたく品の禁止などの政策が、人々の反感を買いました。

そのため当初は、『御年(おんとし)は若し 末頼もしく 思ふものは松平越中守(まつだいらえっちゅうのかみ)』とうたわれた定信への期待は、次のような落書に変わりました。

『白河の清き魚のすみかねて もとのにごりの田沼こひしき』(白河藩主・定信の清らかな政治よりも、田沼の濁った政治が懐かしい)

寛政5年(1793)7月、天明7年(1787)から続いた寛政の改革は、人々の反感を買い、経済も停滞、定信は36歳で老中を罷免。改革は中断されました。

寛政の改革 田沼政治からの脱却を進めて、幕政改革を行った松平定信の手腕でした。





-歴史
-

Copyright© そこに山と金があるから , 2018 All Rights Reserved Powered by AFFINGER4.