享保の改革 8代将軍・徳川吉宗のバブル崩壊後の経済再建計画。

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超わかりやすい享保の改革の解説記事を作りました!

享保の改革、寛政の改革、天保の改革を総称して【江戸の三大改革】と呼ばれています。

元禄の繁栄のあとを襲ったバブル崩壊。紀伊藩主から8代将軍の位へ登りつけ、江戸城へと入った吉宗は、この困難な転換期をどのように乗りきったのか。経済再建の退任を見事に果たし、【幕府中興の英主】といわれた吉宗の行った享保の改革について、分かりやすく解説していきたいと思います。

吉宗の登場

享保元年(1716)から延享2年(1745)にかけて、8代将軍・徳川吉宗が主導して行ったのが享保の改革です。

この時期、経済成長の時代から低成長の時代への曲がり角をすぎ、社会秩序も大きく変化しつつあった。しかも、疫病や災害が続き、社会不安も高まっていた。

しかし、これに対応すべき幕府は、6代将軍・家宣の時代以後、将軍権力が弱体化し、譜代派と新参派との対立もあり、幕府は一種の停滞状況に陥っていた。

幕府財政も悪化し、旗本らの俸禄(給料)は遅配となり、人員の削減まで話題にのぼるようになっていた。財政の悪化は、そのまま国家機能・公共機能を低下させる要因となっていた。

こうした中で、将軍に就任した吉宗は『諸事権現様定め通り』、すなわち徳川家康が定めた通りに政治を行う、と宣言し、大規模な政治改革を開始します。

その際、彼が選んだ道は、将軍権力を確立しつつ、幕府権力(中央権力)を強化し、幕府財政を再建することによって、国家機能・公共機能を拡大しようとする道でした。

すなわち吉宗は、当時3000万人といわれる国民生活の維持・安定のために【大きい政府】、【強い政府】による国家再編の道を選びます。

 

江戸の都市政策

当時、江戸は推定人口100万人の世界的大都市であった(ロンドンは46万人、パリは55万人)。しかし、都市政策は遅れ、防災対策も不十分なままでした。これに対し、吉宗は享保2年(1717)にドラマなどでおなじみの大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)を町奉行に抜擢。伊勢国(三重県)の山田奉行時代の功績が認められての抜擢でした。

町奉行は、江戸の町方の行政・司法・警察・消防などをつかさどる激務でしたが、大岡はそれを19年間も務めました。

大岡がまず取り組んだのは、繰り返し大火に見舞われた江戸の防火問題でした。板葺き(いたぶき)で燃えやすい屋根を瓦葺き(かわらぶき)にさせ、火事の際の避難地(火除地)や広小路(避難と防火のための幅広い道)を各所につくりました。

消火のためには、町火消を組織させました。

これは、江戸の消火体制を強化するために、町人の力を活用しようとしたもので、【いろは四十七組】に分け、組ごとに担当地区の消火に当たらせました。

 

目安箱の設置

民衆聴衆を求めるために、享保6年(1721)6月に、評定所の門前に【目安箱】を設置し、町医者の小川笙船(おがわしょうせん)の意見をもとに小石川養生所の設置を決め、その実現に尽力した。養生所は官立の総合病院として、幕府お抱えの名医が貧しい人々を無料で診療しました。

この目安箱は鍵をかけたまま吉宗の元に届けられ、吉宗自ら開錠したそうです。

 

定免法(ていめんほう)

財政改革の基本は、あくまでも年貢収入の増大にあると考えていた吉宗は大規模な増税対策も行いました。

享保6年(1721)年貢増収策としては、新田の開発を進めるとともに、【検見法(けんみほう・年ごとに収穫高に応じた年貢率)】をやめ、不作や豊作に関係なく、毎年一定の年貢を納めさせ、徐々に増額する【定免法(ていめんほう)】に切り替え、翌7年から実施した。さらに、綿などの商品作物の生産が行われるようになった畑地の税も重くした。

出来高のうち、翌年の再生産部分を残して、すべて年貢として徴収しようとする【有毛検見取法(ありげけみどりほう)】などの新税制を採用するなど、幕府収入を大幅に増大させました。

 

上げ米の制

幕府の給与には、領地を与える【知行取り(ちぎょうとり)】と、米・金で支給される【蔵米取り(くらまいとり)】があり、【蔵米取り】での支給総額は100万俵近くにのぼり、幕府財政は窮迫の度を深めていました。その支払いに窮した幕府は享保7年(1722)7月、吉宗は全国の大名に1万石につき100石の割合で米を幕府に差し出す代わりに、参勤交代で江戸に滞在する期間を半年に減らした。

 

足高の制

優秀な人材の登用を目的として、【足高の制】を実施。

享保8年(1723)6月、低録の者でも役職につけるようにと定めた制度です。

役職ごとに石高を定め、それ以下の者が就任するときは、在職中だけ不足分を支給する制度です。これにより、川崎宿の名主だった田中丘隅(たなかきゅうぐ)大岡越前守忠相などの有能な人材を多く登用した。

たとえば、江戸町奉行の役職手当は3000石であったが、任用者の家禄が2000石であれば、1000石が加算されて役料として支給された。

また、【倹約令】をだして贅沢を禁止し、支出を抑えようとしました。

 

公事方御定書(くじかたおさだめがき)

政権末期の1742年には江戸時代最大の法令書であり、多発する犯罪に対応するための判例集である【公事方御定書(くじかたおさだめがき)】を制定し、多くの法典を編纂するなど法制を整備し、裁判や刑の基準などを決め、裁判が公平に行われることをめざしました。

 

実学の奨励

吉宗は、天文学や気象学といった実学(実際に役立つ学問)に興味を持って、自身も学びました。そのため、甘藷(サツマイモ)・サトウキビ・櫨(はぜ)・朝鮮人参の栽培などの新しい産業を奨励しました。また、キリスト教に関係のない漢訳洋書の輸入を許したので、のちに蘭学が発展するきっかけにもなりました。また、全国規模で人口調査を開始し、物産調査や、薬草調査も実施。日本絵図を作成し、対外貿易の規制を強化、さらに国民教育を振興し、全国的に孝行者を表彰するなどしました。

 

相対済し令(あいたいすましれい)

享保4年(1719)11月、札差などからの借金苦にあえぐ幕臣とその訴訟の急増に困惑した幕府は、5代将軍・綱吉の貞享4年(1686)にさかのぼって、当事者同士の解決(相対)を図ることを旨とした【借金相対済し令】を布告し、賃借関係の清算を狙いました。いわゆる示談保進法令です。

寛文元年(1661)閏8月、貞享2年(1685)、元禄15年(1702)閏8月と、数度にわたって発令されています。

 

その他の政策

当時江戸の庶民は、【米価安の諸色高(べいかやすのしょしきだか)】という、米価の下落と物価の高騰に悩んでいました。これに対し吉宗は、米の需要を増やすために空米取引を許可する一方、供給を制限するために、諸藩に囲米(米の貯蔵)を命じるなど、米価政策に躍起となり、【米将軍】の異名をとった。江戸の札差(ふださし・幕臣の給米を買い取り、売りさばいた商人)がつくった株仲間を公認し、そこから営業税を取るとともに、物価が上がって人々の生活を苦しめないように取り締まった。

物価高騰に対しては、業種ごとに仲間組合を結成させ、物価引き下げを命じました。

 

支配領主の違いをこえた国単位の夫役(労働力)徴収方式である国役による河川普請体制を整備し、国土の保全もはかりました。

 

このほか、江戸から半径5里の地域(江戸時代における首都圏、江戸城城付地とも)を一円的に将軍の鷹場とし、江戸城・将軍家とかかわる特別な規制や負担を課しました。また、隅田川(江東区)、飛鳥山(北区)、中野(中野区)、御殿山(品川区)の江戸の東西南北をはじめ、各地に行楽地を整備し、江戸の庶民の娯楽にも気を配りました。

 

民衆の反応は

改革は1716年から1745年までの29年間、つまり吉宗の将軍在職中ずっと続きました。

武芸の奨励、貨幣改鋳、新田開発などあらゆる分野で改革を行い、年貢の増税、倹約、緊縮政策などとあいまてて、幕府財政は大きく好転しました。

当時の辣腕家の勘定奉行・神尾春央(かんおはるひで)は『胡麻の油と百姓は、絞れば絞るほどでるものなり』(本田利明『西域物語』)と語ったとされ、部下の勘定奉行頭・堀江芳極(ほりえただとう)とともに行った畿内・中国筋の増徴の厳しさに、

東からかん(神尾)の若狭が飛んで来て

野をも山をも堀江荒しろ

『甲子夜話(こうしやわ)』

という落首が中国地方で書かれたほどでした。

 

享保6年(1721)には、牢人の山下幸内が目安箱に『天下を治める人が、金銀を集めることに精を出し、金銀が将軍のもとに集まったならば、天下の万民は皆困窮してしまう。このような政策は、恐れながら器量が狭く、日本衰微のもとにて御座候』と吉宗の政策を批判しました。

 

享保18年(1733)、儒学者の太宰春台(だざいしゅんだい)は、上野国沼田藩の藩主・黒田豊前守直邦(くろだぶぜんのかみなおくに)に対する上書の中で『現在、天下の万民が吉宗を怨むこと讐敵(きゅうてき)のごとくである』と述べています。

 

同年、伊勢国出身で、江戸で商人として成功した食行身録(じきぎょうみろく)は、農民たちが苦しむのは、吉宗の強権政治のせいであるとし、【世直し】のために富士山で断食して果てました。

 

さらに、改革後期の政治を批判した『松平左近将監風説集(まつだいらさこんのしょうげんふうせつしゅう』には、増税が厳しいため、『百姓共致困窮、上を奉恨、公儀を嘲り候様に致候』と、農民たちが吉宗や幕府に反感を抱いていたことを述べ、規制強化についても『やたらと鍋の中へ杓子(しゃくし)を入れ、繰り返しこねまわすので、泥粥のようになってしまった。世の中のことは、ただかまわずにしておけば、自然と豊かになるものなのに』と世話を焼きすぎる鍋料理に例えて批判しています。

また、同史料には改革政権が『刑罰をこまごまと細分化し、分類したこと』『一枚の紙で済む法令を千枚にもしてしまう』と法の細かさや規制の多さを批判し、物価政策についても『物の値段は、人為的な操作で決まるものではなく、自然(需給関係)によって決まるものであり、公儀の威光や人の知恵で決まるものではない』と権力の介入を批判しています。

 

こうした批判を背景に、

享保5年(1720)の会津御蔵入騒動(あいずおくらいりそうどう)、

同7年の出羽国村山郡長瀞村(ながとろむら)、

越後国頸城郡の質地騒動、

同14年の陸奥国伊達・信夫郡の夫食拝借・年貢減免一揆、

元文3年(1738)の但馬国の生野銀山での鉱夫の一揆、

など各地の幕府領で、幕府の支配強化に対する一揆が起こっています。

 

延享2年(1745)の吉宗の将軍隠退の際には、出羽国村山郡谷地(やち)郷の農民は、新しい政治のはじまりを期待して、『末頼母敷(すえたのもしく)皆々悦(よろこび)御事に御座候(ござそうろう)』とさえ記しています。

 

国民生活の維持・安定へむけて国家支配を強化した享保の改革は、庶民の不満や批判のなかでその幕を閉じました。

 

 

荻生徂徠(おぎゅうそらい)

吉宗の侍講(じこう)として重用された荻生徂徠は、1666年、5代将軍・綱吉に仕える医者の子として生まれた。綱吉の側近・柳沢吉保(やなぎさわよしやす)のブレーンとなったが、吉保失脚後は日本橋茅場町(かやばちょう)に蘐園塾(けんえんじゅく)を平いて学問と教育に専念した。

徂徠は、君主の人格形成のための学問だった朱子学を、社会を統治するための学問へと転換させ、幕藩体制の強化と政治改革の必要性を説いた。著書『政談』は、幕府改革を唱えた書。

その学派は古文辞学派(こぶんじかくは)または蘐園学派とよばれ、大きな力を持った。

 

青木昆陽(あおきこんよう)

サツマイモの栽培を広めたことで知られる青木昆陽は1698年、日本橋の魚問屋の子として生まれた。

京都の伊東東涯(いとうとうがい)に学び、江戸に戻って塾を開いた。大岡忠相に知られ、飢饉を救うためにサツマイモ(甘藷)の栽培をすすめる【蕃藷考(ばんしょこう)】を献上した。

これが吉宗に認められてサツマイモ栽培が全国に広まり、昆陽は【甘藷先生】とあだ名されるようになった。

吉宗の命を受け、野呂元丈(のろげんじょう)とともに、オランダ語を学び、その蘭学の知識は、門人の前野良沢(まえのりょうたく)に伝えられた。

 

まとめ

吉宗の行った改革は間違ってはいませんが、財政難の解決法は農民からの年貢を増やすしかない。という結局は農民を苦しめてしまう結果になりました。まあ、取れるところがそこしかないので仕方ないのですが。

末端の存在である国民がしわ寄せを食らう。

これはいつの時代でも変わりはありませんよね。

現代でいえば【消費税増税】が一番当てはまるところです。

享保の改革 8代将軍・徳川吉宗のバブル崩壊後の経済再建でした。





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