荻原重秀 家綱時代の財政を担った勘定奉行。

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荻原重秀(おぎわら しげひで)

生:万治元年(1658年)

没:正徳3年9月26日(1713年11月13日)

通称・五左衛門、彦次郎。

近江守(おうみのかみ)。

 

延宝2年(1674)、勘定所に列し、勘定組頭を経て貞享4年(1687)勘定頭差添役(のちの勘定吟味役)に進み、550石を給された。

延宝検地:延宝5年(1677年)幕府は太閤検地以降80年もの間一度も検地を行わなかった五畿内の検地を実施した。

佐渡金山再生:元禄3年(1690年)に当時生産量が落ち込んでいた佐渡金山を再生させるために、現地にて金山の状況を調べ上げた。坑内に溜まった地下水を排出するための排水溝を掘削することを決める。

その5年後の元禄9年(1696年)に【南沢疏水坑】が完成し、これにより佐渡金山は生産量を回復させる。

元禄8年(1695)幕府の財政難打開のため建議した貨幣改鋳案(かへいかいちゅうあん)が採用され、改鋳および新旧貨幣引替の任にあたった。翌年には勘定頭(のちの勘定奉行)に進み、2000石となる。

重秀の改鋳案は、貨幣の品質を落として通貨量を増加させるやり方で、これにより生ずる差益で幕府財政は一時立ち直ったという。幕府の改鋳差益金は約500万両にもなった。しかし一方で、物価高騰を招き、経済は混乱した。

綱吉時代の後半の幕府財政は、老中でさえも実情を知らず、彼の掌中にあったとされています。

元禄検地と地方直し:元禄10年(1697年)、御蔵米地方直令を出して、500石以上の蔵米取の旗本と、知行と蔵米の合計が500石以上の旗本を全て知行取りに変更する元禄地方直(げんろくじかたなおし)を行う。この政策に先駆けて、元禄検地を実施し、質地取扱の覚を制定。

6代将軍家宣の代になり、重秀の所業を憎む新井白石(あらいはくせき)により3度にわたって弾劾され、罷免された。

正徳3年(1713年)9月26日に死去。絶食して自害したとも言われる。

享年55歳。

荻原重秀 家綱時代の財政を担った勘定奉行。でした。



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