大久保忠燐 秀忠側近ナンバーワンの皮肉な運命。

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大久保忠燐(おおくぼ ただちか)

生:天文22年(1553年)

没:寛永5年6月27日(1628年7月28日)

松平氏(徳川氏)の重臣・大久保忠世の長男として三河国に生まれる。

相模国小田原6万5000石の城主。

 

11歳の時に、家康に仕えて以来、数々の戦いに参戦し軍功を重ねた。長篠合戦では織田信長から『あっぱれ、剛の者よ』と激賞された。

秀忠が将軍に就任すると、老中として政権の一翼を担った。

ところが慶長18年(1613)12月6日、忠燐預かりになっていた馬場八左衛門の逆恨みにより謀反の疑いをかけられる。

これにより、対立していた家康側近だった【大御所の知恵袋】と称された本多正信(ほんだまさのぶ)の策により、慶長19年(1614)正月20日、改易・小田原城没収に追い込まれた。

駿府の大御所側近・正信と、江戸の将軍側近・忠燐はかねてからソリが合わず反発していた。この偽りであった謀反だったが、正信にとっては忠燐を陥れる最大の【チャンス】だったのです。

初代京都所司代(しょだいきょうとしょしだい)・板倉勝重が、幕命を伝えるため忠燐の元を訪れた際、将棋を指していた忠燐は改易と聞いても驚いた様子も見せず、『改易とあっては、もはやこのような将棋の楽しみもありますまいから、しばらくお待ちあれ』といい、心ゆくまで駒を戦わせた上で、静かに座を立ったそうです。

家康の死後、井伊直孝(いいなおたか)が秀忠に冤罪を嘆願しようとしたが、忠燐は疑いが晴れるということは、家康の判断が間違いだったことになり、家康の名が傷つくとし、断ったとされている。

配流先の近江で出家して、渓庵道白(けいあんどうはく)と号し、失意のまま没しました。

享年75歳。

本多正信(ほんだまさのぶ)は、元は家康の家臣だったが、一向一揆で一揆方の参謀として戦い、追放される。帰参を取りなしてくれたのが、何を隠そう忠燐の父・大久保忠世だった。恩人忠世の嫡男・忠燐を幕閣から容赦なく葬り去ることになるのは人生の皮肉であり、非常の極みというほかありません。

大久保忠燐 秀忠側近ナンバーワンの皮肉な運命。でした。





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