天草・島原の乱 鎖国政策の決定的原因となった一揆。

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幕府はキリシタン禁圧のため、寛永8年(1631)の奉書船制度の制定に続き、同10年には奉書船以外の渡航を禁じ、帰国者を制限しはじめたが、同12年日本船の海外渡航を禁じ、帰国者は死刑という鎖国令を発令した。

九州はもともとキリスト教信者が多く、かつて島原は有馬晴信(ありまはるのぶ)、天草は小西行長(こにしゆきなが)というキリシタン大名の領地でした。

領民には依然強いキリシタン信仰が残っていた。

慶長19年(1614)に有馬晴信が転封となり、代わって松倉重政(まつくらしげまさ)が入封。

キリシタンに改宗を迫って、過酷な迫害を行い、年貢を過重に取り立てました。重政の急死に伴い、勝家が跡を継ぎますが重政同様に重政を行います。

天草には関ヶ原の戦いの後に寺沢広高が入部し、次代の堅高の時代まで、島原同様厳しい圧政とキリシタン弾圧が行われました。

天草・島原の乱 鎖国政策の決定的原因となった一揆。

寛永11年(1634)からの凶作続きにもかかわらず、年貢の取り立ては厳しく、年貢を払えない農民やキリシタンに対し、火あぶりや磔(はりつけ)などの拷問・処刑が行われました。

餓死する者も出てきて、農民は同14年10月、島原の有馬村の代官を殺して蜂起し、島原城を攻めます。

天草でも農民や有馬・小西に仕えていた浪人が蜂起し、富岡城を攻撃します。

島原一揆、天草一揆ともに城攻めに失敗したが、両者が合流してキリシタンの間でカリスマ的な人気を得ていた16歳の少年・天草四郎(本名・益田四郎時貞)を一揆軍の首領に仰ぎ、3万7000人が有明海を渡って有馬氏の旧城、原城を修復し、藩の蔵から奪った武器弾薬、食料を運び込み、討伐に備え立て篭もります。鉄砲は2000丁あったとされています。原城には、赤い十字架をつけた無数の旗がなびいていたといいます。

一揆衆は全国各地に使者を派遣しており、キリスト教に縁が深いポルトガルの援軍を期待していたようです。

 

幕府は、板倉重昌(いたくらしげまさ)、戸田氏鉄(うだうじかね)を上使(じょうし)として島原に赴かせ、近隣諸大名を動員して弾圧に当りました。

しかし、一揆勢の頑強な抵抗をうけ、板倉重昌は寛永15年(1638)元旦の総攻撃に失敗して戦死します。

事態に驚いた幕府は、老中・松平信綱(まつだいらのぶつな)を重ねて派遣。

信綱は包囲軍を増強して、兵糧攻めを行います。また、海からはポルトガル船2隻から砲撃を行わせ、キリシタンが密かに期待していたポルトガルが幕府側についたことをアピールし、一揆勢の士気を低下させました。

やがて城内の兵糧も弾薬も尽き果てたころ、諸大名率いる12万の軍で総攻撃をかけます。

天草・島原の乱 鎖国政策の決定的原因となった一揆。

奮闘むなしく原城は落城し、一揆軍の大半は戦死。生き残った者もすべて処刑されました。

助かったのは内通者であった南蛮絵師の山田右衛門作ただ1人だけだったといいます。

幕府は乱の鎮圧後、キリシタンを根絶やしにするため、寛永16年ポルトガル船渡航禁止令を発し、同18年オランダ人を長崎・出島に強制移住させて鎖国制を完成させます。

松倉勝家は一揆の原因が『領民への過剰な税の取り立て』という自らの失策にあるとは認めず、幕府には『キリシタンによる暴動』だと報告していました。

 

幕府は一揆の原因となった勝家を改易し、島原藩は遠江国松前藩の高力忠房(こうりきただふさ)が継ぐことになりました。

さらに、勝家の非道が明るみに出ると、幕府は彼を斬首に処し、松倉家は断絶しました。

江戸時代に大名が切腹ではなく、斬首とされたのはこの1件のみです。

同時に天草を領有していた寺沢堅高も責任を問われ改易、その後精神異常をきたして自害し、寺沢家も断絶となりました。

天草・島原の乱 鎖国政策の決定的原因となった一揆。でした。





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