大塩平八郎の乱 天保の大飢饉をきっかけに起こった一揆。

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大塩平八郎の乱

天保4年(1833)に始まった飢饉は【天保の大飢饉】とよばれ、年々深刻さを増した。米も異常に値上がりし、飢え死にしたり、身投げしたりする人々が続出した。全国各地では一揆や打ちこわしが勃発。

【天下の台所】といわれた大坂も例外ではなかった。しかし、大坂の町奉行は、人々を救済するどころか、各地から入ってくる米を次々と江戸にまわした。さらには、豪商らも米を買い占め、暴利をむさぼっていた。

こうした惨状をみかねて立ち上がったのが、大塩平八郎(おおしおへいはちろう)だった。大塩は元・大坂町奉行の役人で、著名な陽明学者(ようめいがくしゃ)でもあった。

蜂起する前、大塩は町奉行に貧民の救済を何度も願い出るが黙殺される。一方、豪商にも救済資金の提供を求めるが、にべもなく断られたといわれる。

そこで大塩は、武力によって貧しい人々を救おうと決意。自らの蔵書を売り払って都合した金を貧民に配り、『火の手が上がったら駆けつけるように』と参加を促す激文を渡した。

そして天保8年(1837)2月。門人とともに挙兵する。

一行は【救民】と大きく染め上げられたのぼりを翻し、大砲や火矢を放ちながら、豪商たちの屋敷が立ち並ぶ船場に向かった。槍や刀、あるいは鍋や鎌を手にした農民も次々と加わり、船場に到着したころには数百人に膨れ上がっていた。豪商たちの屋敷を襲って米や銭を奪い、大塩はそれらを貧民に与えた。

市中で大砲を放ち、大坂を火の海にしたが、大坂城から出陣してきた幕府軍の前に、わずか半日にして鎮圧されてしまう。大塩は大阪市内に潜伏するも、役人に踏み込まれ自害して果てた。

大塩の生き様に感銘を受けた人々も多く、乱後、同様の一揆や打ちこわしが各地で続発した。

大塩平八郎の乱 天保の大飢饉をきっかけに起こった一揆。でした。





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