シーボルト事件 日本を心から愛したドイツ人スパイ。

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フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト

著書『NIPPON』で欧米列国にしられざる日本の姿を伝えたシーボルト。しかし、『シーボルト事件』で幕府にスパイの烙印を押さえた危険人物でもありました。いったいシーボルトとは何者だったのでしょうか。

医学者・動植物学者・民俗学者・そして音楽家。日本に初めてピアノを持ち込んだ人物でもあります。

そこには【スパイ】という肩書きがあったのでしょうか。彼の人生を見ていきましょう。ページの最後には彼の人生をまとめた表も載せておきます。

 

日蘭貿易

19世紀初頭、ナポレオン戦争で疲弊していたオランダは、日蘭貿易をさらに強化する道を模索していた。オランダは日本の国土、産物の総合的な調査をするために自国人でなく、博学気鋭のドイツ人医師・シーボルトに白羽の矢を立てます。

 

日本来日

文政6年(1823)8月、27歳のシーボルトはオランダ商館づきの医師として長崎・出島に来日します。

若きシーボルトは使命感に燃え、当時彼が書いた報告書には『この国における万有学(科学研究)的調査の使命を帯びたる外科少佐ドクトル・フォン・シーベルト』との署名が見られます。

シーボルトは出島で日本人の治療も行い、楠本滝と恋に落ち、滝を妻として同地に根を深く下ろします。

 

日本ではオランダ人として振る舞い、ドイツ人としての正体は明かしませんでした。

シーボルトがアジサイに付けた学術名【Hydrangea otaksa】は、彼が愛した滝にちなんだ命名のようです。また、アイナメの学名【Hexagrammos otakii】も滝の名に由来するといわれています。

文政10年(1827)5月には、娘のイネも誕生します。

学者肌のシーボルトは、たちまち日本研究の虜になります。

幕府の蘭学に対する理解も深まっていた時期でもあり、翌年出島を出て鳴滝(長崎市)で塾を開くことを許可されます。これは当時異例の処置でした。長崎奉行もシーボルトの目的を知りながら便宜を図った節があり、両者は有効な関係を築いていたといえます。

鳴滝塾でシーボルトは高野長英(たかのちょうえい)、伊東玄朴(いとうげんぼく)、美馬順三(みまじゅんぞう)ら多くの弟子を教える一方で、彼らに日本研究に関する論文を提出させます。高野らのレポートは極めて優秀で、内容も動植物研究、日本史から茶の製法までバラエティに富んでいた。

シーボルトは『日本人は勤勉で優秀な民族だ』と舌を巻き、これらを貴重な資料としました。

 

禁製品の日本地図が落とし穴に

文政9年(1826)、シーボルトはまたとない日本研究のチャンスをものにします。

オランダ商館長が将軍に宝物を献上する【江戸参府】への同道を許されました。道中、彼は植物、動物の採集に余念がなかった。江戸に着いたシーボルトは蝦夷地研究家・最上徳内(もがみとくない)と幕府天文方・高橋景保(たかはしかげやす)に面会します。

この時、景保からもらった日本地図が、彼の運命を変えます。

 

シーボルトはロシアの地図『世界周航記』と引き換えに景保から日本地図を受け取ったのだが、この地図が幕府の超極秘資料でした。伊能忠敬(いのうただたか)が作成し、現在でも制度の高さを評価させる【日本沿海興地地図】)(伊能図)だったのです。

日本沿海興地地図
日本沿海興地地図(伊能図)

文政11年(1828)正月、シーボルトは痛恨の失策を犯します。

彼は蝦夷の探検家として知られた間宮林蔵(まみやりんぞう)の存在を知り、蝦夷で採集した植物を送ってもらおうと手紙を送ります。しかし、当時個人と外国人との直接的な接触は御法度だったため、同年3月、林蔵はこの手紙を封も切らず勘定奉行に提出します。シーボルトは景保にも同時に手紙を送っていたが、景保はこれを届けていませんでした。

これでシーボルトと景保の密接な関係はおろか、日本地図が漏洩していることも幕府の知るところとなります。

10月、景保は捕縛され、11月にはシーボルトの尋問が始まります。この時、日本地図は取り上げられましたが、シーボルトは複写済みだった。

この事件に連座して、シーボルトの知人、弟子ら50数人が捕縛され、厳しい取り調べを受けました。

(乗船が難破し、積み荷から禁製品持ち出しが発覚したことが事件の発端という有名な話がありますが、現在この説は疑問視されています)

 

日本追放

シーボルト自身は知らぬ存ぜぬを押し通し、景保や弟子たちをかばい続けます。しかし1年拘禁された後、日本追放の処分を受けます。

文政12年(1829)12月、彼は失意のうちに日本を去りました。高橋景保は死罪となります。

日本で収集した文学的・民族学的コレクション5000点以上のほか、哺乳動物標本200・鳥類900・魚類750・爬虫類170・無脊椎動物標本5000以上・植物2000種・植物標本12000点を持ち帰ります。

彼が日本から持ち帰った植物標本や美術品は、こののちにヨーロッパで始まったジャポニスムの源流とも言われています。

オランダに戻ったシーボルトは、ライフワークとなる『日本(NIPPON)』をはじめ、多数の日本研究書の執筆に没頭します。

シーボルト 日本(NIPPON)
シーベルト著 日本(NIPPON)

また、オランダ国王を通じ日本の開国を訴えました。シーボルトの書は米提督ペリーも絶賛。彼に日本の予備知識を与えます。

嘉永6年(1853)、ペリーは浦賀に来航して、開国を要求。幕府に1年の猶予を与えるが、武力解決を否定し、猶予を与えるようにペリーに進言したのはシーボルトだったとされています。

いずれにしても大著『日本(NIPPON)』抜きで黒船来航は語れません。

 

再び日本へ

追放から30年後、【日本を愛したスパイ】は処分を解かれ、再び日本の土を踏むことになります。

彼の日本に対する想いは変わらなかったようです。

そしてシーボルト63歳、妻の滝と娘のイネと30年ぶりの再会を果たします。

日本が鎖国から開国、維新への大転換を果たした過程で、彼が果たした役目は小さくありません。

ただのスパイではなく、ただの学者でもなく、定まらぬ人物評価の中で、彼は今後も生き続けていくでしょう。

 

シーボルトの生涯。

文政6(1823)8月 出島駐在医師として長崎へ初来日(27)
同9月 楠木滝とめぐり会い恋仲に。
文政7(1824) 長崎郊外の鳴滝に塾を開く(28)
文政8(1825) 鳴滝塾で高野長英、伊東玄朴らを教える。
文政9(1826)2月 江戸幕府へ。4月に江戸着(30)
同4月 最上徳内、高橋景保と接触。
景保より日本地図を得る。
同7月 長崎帰着。
文政10(1827)5月 滝との間に楠木イネ誕生(31)
文政11(1828)1月 高橋景保、間宮林蔵に手紙を送る(32)
同3月 間宮が手紙を幕府に提出。
同10月10日 シーボルト事件発生。景保は捕縛。
同11月10日 シーボルトへの尋問開始。
文政12(1829) 日本追放を申し渡され12月に離日(33)。
高橋景保獄死。
天保元(1844) オランダに帰着(34)
天保3(1832) 『日本(NIPPON)』第1分冊出版(36)
弘化元(1844) 開国を勧めるオランダ国王の将軍宛親書を起草(48)
嘉永6(1853) ペリー艦隊に武力解決を諌める手紙を送る(57)
安政元(1854) 『日本(NIPPON)』出版が完結(58)
安政5(1858) 追放令を解かれる(62)
安政6(1859) 30年ぶりに来日。滝、イネらと再会(63)
慶応2(1866)10月 18日、ミュンヘンで死去(70)

スパイと呼ぶには失礼なほど、純粋に日本という国を調べ、心から愛したシーベルトでした。

ただ、彼が日本から持ち帰ったものや、著書『日本(NIPPON)』、そして伊能忠敬(いのうただたか)が作成し、現在でも制度の高さを評価させる【日本沿海興地地図】)(伊能図)は完全に日本を丸裸にするものであったのは間違いありません。

ゲームでも、攻略に大事な要素の一つがの地図ですもんね。

それが白人の有色人種支配の日本侵略の手助けとなってしまっては、スパイと呼ばれても仕方がないとも思います。

 

日本に残した家族のその後

シーボルトが日本に残した楠本滝と娘のイネのその後はどうなったのでしょうか。

楠本滝

シーボルトの妻の楠木滝

1807年~1869年。
遊女だったようで、遊女名は其扇(そのぎ)。
シーボルト事件でシーボルトが国外退去,のち俵屋時治郎と結婚。
明治2年4月12日死去。63歳。

 

楠本イネ

シーボルトの娘の滝本イネ

1827年~1903年。
1871年(明治4年)、日本人女性初の産婦人科医。
日本人女性初の産婦人科医院を東京で開業。
文政10-明治36 76歳没。

 

楠本高子

シーボルトの孫の楠木高子

(満16歳) 1868年撮影

 

シーボルトの孫の楠木高子

イネが師事した医師石井宗謙との間に産まれた子
1852年~1938年。 嘉永05(昭和13) 86歳没。

後の『銀河鉄道999』のメーテル、『宇宙戦艦ヤマト』のスターシャのモデルとも言われています。
現代でも通用する美しさですね!

シーボルトが日本に連れてきた息子たちが、異母姉にあたるイネや姪の高子を助け続けました。
イネの産婦人科医院の開業資金を援助をしたのがシーボルト兄弟でした。

弟のハインリヒはイネが医者を廃業した後も、終生、面倒を見たそうです。

シーボルト事件。日本を心から愛したドイツ人スパイ。でした。



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