大久保忠教 【天下のご意見番】三河武士の気質を持った旗本。

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大久保忠教(おおくぼ ただたか)

生:永禄3年(1560年)

没:寛永16年2月29日(1639年4月2日)

通称・平助、のちに彦左衛門(ひこざえもん)。初名は忠雄(ただお)。父は忠員(ただかず)。

 

天正3年(1575)から家康に仕え、翌年の遠江乾(とおとうみいぬい)の戦いに初陣して以来、高天神城攻略や信濃国佐久平定戦、上田城攻略など、常に兄・忠世(ただよ)に従い戦功をたてた。

家康の関東移封後、忠世の子・忠燐(ただちか)の所領のうち、武蔵国埼玉郡内で2000石を領したが、慶長19年(1614)に甥・忠燐の改易により駿府に召され、三河国額田(ぬかた)郡で1000石を賜る。

大坂の陣では鎗奉行(やりぶぎょう)を勤め、のちに旗奉行となった。

翌年1000石加増。

大久保家は譜代の功臣であったが、忠燐失脚後の一族の不遇と武功によらず昇進する世相に対しての不満と憤りの心情を、その私記『三河物語』で赤裸々に吐露(とろ)し、権威に追従しない態度が講談などで人気を博しました。

享年80歳。

大久保忠教 【天下のご意見番】三河武士の気質を持った旗本。でした。

 





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