酒井忠勝 家光・家綱を補佐。家光から絶大な信頼を得ていた大老。

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酒井忠勝(さかいただかつ)

生:天正15年6月16日(1587年7月21日)

没:寛文2年7月12日(1662年8月25日)

通称・鍋之助、与七郎。忠利の子。

讃岐守(さぬきのかみ)。

 

三河国西尾に生まれる。

慶長5年、関ヶ原の戦いでは父と共に上田城攻略に参加。

元和6年(1620)、家光に付属させられて側近となり、同8年に武蔵国深谷1万石の大名となった。

家光の将軍就任の翌寛永元年(1624)に老中に就任、同15年大老に昇進。この間は加増も度々受け、同11年には若狭小浜11万3500石に達した。土井利勝とともに政務を補佐し、家光の信任も厚かった。

家光の死後、遺言により幼君・家綱の補佐役となり、家綱から名臣第一といわれた。

武功派の父と違って、側近から幕閣の中心となった吏僚型(りりょうかた)の大名で、秀忠・家光・家綱と3代に仕え、その功績は大きかった。

家光は忠勝を特に信任し『我が右手は讃岐(酒井忠勝)、我が左手は伊豆(松平信綱)』と述べ、絶大な信頼をおいたという。また家光が他の重臣と協議するときは寝間着姿のときもあったが、忠勝との協議のときだけは必ず着替えて引見したという。

隠居後は剃髪して空印(くういん)と号し、『日本王代一覧』や『日本帝王系図』を編集した。

享年76年。

酒井忠勝 家光・家綱を補佐。家光から絶大な信頼を得ていた大老。





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