柳生宗矩 秀忠・家光の剣術師範、初代の幕府惣目付(大目付)。

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柳生宗矩(やぎゅう むねのり) 秀忠・家光の剣術師範、大目付

柳生宗矩(やぎゅう むねのり)

生:元亀2年(1571年)

没:正保3年3月26日(1646年5月11日)

通称・新左衛門(しんざえもん)、又右衛門(またえもん)。宗厳(むねよし)の子。

 

柳生新陰流の達人で、文禄3年(1594)家康に拝謁(はいえつ)して側近となる。

慶長5年の上杉征伐に従軍して下野(しもつけ)国小山に赴いたが、石田三成の挙兵をうけて急ぎ本国の大和国柳生に帰り、義勇軍を編成して関ヶ原の陣に加わった。

戦後、その功により旧領柳生に2000石を賜わり、翌年には1000石加増され、父宗厳の後をうけて二代将軍・秀忠の兵法指南役となる。

柳生家は将軍家の剣術師範としての地位を固めた。大坂冬・夏の陣でも秀忠陣を固めて活躍する。秀忠の元に迫った豊臣方の武者7人(人数に異同あり)を愛刀【大天狗正家】で瞬く間に倒したという。 なお、宗矩が人を斬ったと記録されているのは後にも先にもこの時だけ。

寛永6年(1629)に従五位下但馬守(じゅうごいのげたじまのかみ)、同9年3000石加増で総目付(のちの大目付)となり、大名以下諸士の監察にあたった。

その後も加増をうけ、1万2500石を領した。平和な世を守る修身の剣を目指し、知勇ともに兼ね備えていたため、特に家光に慕われた。

宗矩の死後、家光は何かあると『この問題は宗矩がいたらどうしただろう』といったとされています。

松平信綱、春日局と共に家光を支えた【鼎の脚】の1人に数えられた。

享年76歳。

一介の剣士の身から、大名にまで出世したのは、剣豪に分類される人物の中では、日本の歴史上、彼ただ一人。

柳生宗矩(やぎゅう むねのり) 秀忠・家光の剣術師範、大目付でした。



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