忠臣蔵 松の廊下で刃傷事件の原因。赤穂浪士の討入りの真相。 

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忠臣蔵 松の廊下の刃傷事件

元禄14(1701)年3月14日、江戸城・松の廊下で赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が突然、小刀で高家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)を斬りつけるという事件が起こった。吉良は顔と背中を斬られたが、周囲の者が浅野を取り押さえたので殺されずにすんだ。

この日、江戸城では、年頭の挨拶で江戸に下って来ていた朝廷の使者に、将軍・綱吉が奉答する儀式が行われる予定だった。内匠頭は使節の接待役として、高家筆頭の吉良の指導を受ける立場にあった。高家というのは、幕府の儀式や祭典を司る由緒ある家柄のこと。儀式を台無しにされて激怒した綱吉は、内匠頭を即日切腹、赤穂朝野家に領土没収を命じた。一方、吉良は無罪放免として養生するように伝えたという。内匠頭は通常使われる大手門ではなく、在任として平川門から江戸城を出された。そして、田村右京太夫の屋敷へと護送され、そこで切腹した。

 

誓った敵討ち

主君の切腹の知らせは、同月19日に赤穂城に届いた。この時代、喧嘩であれば両成敗が原則。家老・大石内蔵助(おおいしくらのすけ)はじめ赤穂浪士たちは、浅野内匠頭のみを切腹とする処分に、強い憤りを感じた。そうしたなか、追い討ちをかけるように改易処分と城の明け渡し命令が下った。かくして藩士たちは浪人となった。

内蔵助は京都郊外になる山科に身を寄せ、幕府に対して、浅野家再興と吉良の処罰をたびたび願い出た。しかし幕府は耳を貸さなかった。

1702年7月、内匠頭の弟が、安芸広島藩主・浅野本家に預けられるという処分が決定。これにより浅野家再興の道は完全に断たれてしまう。

そこで内蔵助ら元藩士は、主君の無念を晴らすべく、吉良への仇討ちを決意する。以前から幕府が吉良を裁かぬなら、私刑にすればよいと仇討ちを誓っていた浪士たちも集まり、結束を固めていった。

内蔵助が京都方面にいた浪士たちと共に、江戸に入ったのは11月のこと。目立たぬよう最も賑やかな日本橋に宿をとり、綿密な計画を立てた。浪士たちは行商人や剣術の師匠などに変装し、討入りの機会をうかがった。

 

吉良邸へいざ討入り

忠臣蔵 吉良邸討入り

12月15日未明、内蔵助以下赤穂浪士四十七士は、降り積もる雪の中、吉良邸に討入った。寝込みを襲われた吉良家の侍たちは、暗闇の中パニックに陥った。2時間に及ぶ死闘と探索の末、見事に吉良を討ち、首を取ることに成功。ここに、赤穂浪士たちは主君に代わって本懐を遂げたのである。

早朝、泉岳寺にある主君・浅野内匠頭長矩の墓前に首を供え、仇討ちを終えたことを報告した。

怨みぞ晴し給へと殿の墓前に額づく 赤穂義士誠忠畫鑑
「怨みぞ晴し給へと殿の墓前に額づく」『赤穂義士誠忠畫鑑』

 

世間の人々に絶賛された浪士たち

泉岳寺で幕府に拘束された赤穂浪士たちは、細川越中守綱利、松平隠岐守定直、毛利甲斐守綱元、水野監物忠之の4大名家にそれぞれ預けられた。細川氏には、罪人として冷遇されるどころか、豪華な食事が振舞われるなど、手厚くもてなされたといいます。

そのころ、赤穂浪士たちの処分をめぐり、幕府は大いに悩んでいた。徒党を組んで暗殺したことは法令違反。しかし、亡き主君に忠義を尽くし、自らの命を顧みずに討入りをはたしたことは、武士らしい誉れ高い行為であると賞賛する学者や幕府の役人もいたからだ。

結局、翌年の2月4日、全員切腹との処分が出された。徒党の禁を犯したとしながらも斬刑とはせず、武士として名誉の切腹としたのである。

こうして赤穂浪士の面々は、潔く切腹し、生涯の幕を閉じた。その亡骸はすべて、主君と同じ泉岳寺に葬られた。

主君の恨みを晴らすという献身的な行為を、世間の人々は褒め称えた。

内蔵助を中心とする浪士たちの1年9ヶ月におよぶ苦労は、『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』という戯曲に仕立てられ、江戸時代だけではなく、現在でも文楽や歌舞伎の人気演目となっています。

赤穂浪士達はお預かりの4人の大名屋敷で切腹しました。最後は皆揃って切腹したかったでしょうね。

 

形式上の切腹

当時の切腹は、既に形式化しており、実際に腹を切ることはありませんでした。忠義を貫いた浪士たちでさえ、直接の死因のほとんどは介錯人によるものでした。

間新六郎光風

しかし、間新六郎光風はただ一人、実際に腹を切り、介錯人が慌てて止めを刺したそうです。これは一歩間違えると預かり先の不手際としてお咎めをうけるところですが、検視役が『お見事』と褒め称え、事なきを得たそうです。

 

浅野が吉良を斬りつけた理由

江戸城松の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介斬りつけたのは『遺恨』とされています。

浅野が吉良に斬りつけた時、居合わせて浅野を取り押さえた旗本・梶川梶川与惣兵衛が『浅野が「この間の遺恨おぼえたるか」と叫んで斬りかかった』という記述を後世に残しています。

事件後に簡単な取調べを受けた浅野は『幕府に恨みはなく、吉良には私的な遺恨があり刃傷に及んだ』と証言しています。

浅野が吉良に遺恨をもった理由については、はっきりした理由が判明していません。

しかし、5代将軍綱吉が朝廷との大事な儀式を血で汚したことに激怒し、浅野を即日切腹にしたため”遺恨の原因”について聞くことは出来ませんでした。

吉良も取り調べで『浅野に恨みを受ける憶えは無い』と証言していて、浅野が吉良を恨んだ理由については話していません。まあ、死人に口なしですから、理由を黙っていた可能性もあります。

吉良には浅野内匠頭以外の饗応役にも、”いじめ”を行っていたという話が多く残っているので、浅野が吉良に遺恨をもったのは『吉良が浅野を苛めた』ことが原因だった可能性はあります。しかし、当事者の2人の証言はなく、2人とも結果的に死亡しているので、原因は『永遠の謎』です。

 

吉良邸で応戦した侍の数

吉良邸で赤穂藩士と応戦したのは人数は、正確には分かっていません。

当時の武家屋敷の塀は二重構造になっており、その内側に下級武士が住んでいて、城内に忍び込んだ赤穂藩士は、この武家長屋の出入り口に”かんぬき”を素早く掛け、戦闘に参加できないようにしたそうです。

赤穂市発行の『忠臣蔵』の見方は、吉良屋敷の内にいた者は150人。死者17人・負傷者は28人、合計45人。長屋に閉じ込められた者101人、逃亡した者4人とあります。

吉川英治賞受賞作家の皆川博子氏は、『邸内にいたのは20人ぐらい。しかも、お屋敷の中に詰めていたのはわずか12人』と主張しています。『激論 歴史の嘘と真実』より。

吉良邸は全体で2550坪(畳5100枚分)あり、本屋の部屋数は40ほどあったようで、赤穂浪士の室内組20人による吉良上野介の探索はかなり大変だったと思われます。

 

隣家では何をしていたか?

江戸市内ではすでに旧赤穂藩士が吉良邸へ討ち入りするという噂が流れていて、隣では、物見台を屋敷の境界近くに作り、そこで酒を飲みながら見物していた。

そして争いに巻き込まれるのを避けるために、庭内に完全武装をした兵士を配置。 吉良邸から逃げてくる吉良藩士を槍で追い返し、『潔く戦って散りなされ!』と言ったという話もあります。ホントかよ笑。

 

忠臣蔵 四十七士

赤穂浪士四十七士

吉良邸討入りに参加した赤穂浪士の紹介です。

名前・享年・辞世(じせい)とは、この世を去る時に詠む漢詩、偈、和歌、発句。を載せています。

大石内蔵助良雄
おおいしくらのすけよしお(よしたか)
討ち入りの指導者。享年45歳。
辞世『あら楽や思ひは晴るゝ身は捨つる浮世の月にかゝる雲なし』

大石主税良金
おおいしちからよしかね
大石良雄の長男。最年少。享年16歳。
辞世『あふ時はかたりつくすとおもへども別れとなればのこる言の葉』

原惣右衛門元辰
はらそうえもんもととき
享年56歳。
辞世『君がため思もつもる白雪を散らすは今朝の嶺の松風』

片岡源五右衛門高房
かたおかげんごえもんたかふさ
享年37歳。

堀部弥兵衛金丸
ほりべやへえかなまる(あきざね)
最年長者。享年77歳。
辞世『雪はれて思ひを遂るあしたかな』

堀部安兵衛武庸
ほりべやすべえたけつね
享年34歳。
辞世『梓弓ためしにも引け武士の道は迷はぬ跡と思はば』

吉田忠左衛門兼亮
よしだちゅうざえもんかねすけ
享年64歳。
辞世『かねてより君と母とにしらせんと人よりいそぐ死出の山道』

吉田沢右衛門兼貞
よしださわえもんかねさだ
吉田兼亮の長男。
享年29歳。

近松勘六行重
ちかまつかんろくゆきしげ
享年34歳。

間瀬久太夫正明
ませきゅうだゆうまさあき
享年63歳。

間瀬孫九郎正辰
ませまごくろうまさとき
間瀬正明の長男。
享年23歳。

赤埴源蔵重賢
あかばねげんぞうしげかた
忠臣蔵では「徳利の別れ」で有名。
享年35歳。

潮田又之丞高教
うしおだまたのじょうたかのり
享年35歳。
辞世『武士の道とばかりを一筋に思ひ立ぬる死出の旅路を』

富森助右衛門正因
とみのもりすけえもんまさより
享年34歳。
辞世『先立し人もありけりけふの日をつひの旅路の思ひ出にして』

不破数右衛門正種
ふわかずえもんまさたね
享年34歳。

岡野金右衛門包秀
おかのきんえもんかねひで
享年24歳。
辞世『その匂ひ雪のあさぢの野梅かな』

小野寺十内秀和
おのでらじゅうないひでかず
享年61歳。
辞世『今ははや言の葉草もなかりけり何のためとて露結ぶらむ』

小野寺幸右衛門秀富
おのでらこうえもんひでとみ
享年28歳。
辞世『今朝もはやいふ言の葉もなかりけりなにのためとて露むすぶらん』

木村岡右衛門貞行
きむらおかえもんさだゆき
享年46歳。
辞世『おもひきや我が武士の道ならで御法のゑんにあふとは』

奥田孫太夫重盛
おくだまごだゆうしげもり
享年57歳。

奥田貞右衛門行高
おくださだえもんゆきたか
奥田重盛の養子。近松勘六の異母弟。
享年26歳。

早水藤左衛門満尭
はやみとうざえもんみつたか
享年40歳。
辞世『地水火風空のうちより出し身のたどりて帰るもとのすみかに』

矢田五郎右衛門助武
やだごろうえもんすけたけ
享年29歳。

大石瀬左衛門信清
おおいしせざえもんのぶきよ
享年27歳。

礒貝十郎左衛門正久
いそがいじゅうろうざえもんまさひさ
享年25歳。

間喜兵衛光延
はざまきへえみつのぶ
享年69歳。
辞世『草枕むすぶ仮寐の夢さめて常世にかへる春の曙』

間十次郎光興
はざまじゅうじろうみつおき
間光延の長男。吉良上野介に一番槍をつけ、その首級をあげた。
享年26歳。
辞世『終にその待つにぞ露の玉の緒のけふ絶えて行く死出の山道』

間新六郎光風
はざましんろくろうみつかぜ
間光延の次男。
享年24歳。
辞世『思草茂れる野辺の旅枕仮寝の夢は結ばざりしを』

中村勘助正辰
なかむらかんすけまさとき
享年46歳。
辞世『梅が香や日足を伝ふ大書院』

千馬三郎兵衛光忠
せんば(ちば)さぶろべえみつただ
享年51歳。

菅谷半之丞政利
すがやはんのじょうまさとし
享年44歳。

村松喜兵衛秀直
むらまつきへえひでなお
享年62歳。
辞世『命にもかえぬ一をうしなはば逃げかくれてもこゝを逃れん』

村松三太夫高直
むらまつさんだゆうたかなお
村松秀直の長男。
享年27歳。
辞世『極楽を断りなしに通らばや弥陀諸共に四十八人』

倉橋伝助武幸
くらはしでんすけたけゆき
享年34歳。

岡嶋八十右衛門常樹
おかじまやそえもんつねしげ
原惣右衛門の弟。
享年38歳。

大高源五忠雄
おおたかげんごただお(ただたけ)
俳人・宝井其角と交流があり、これを基として『松浦の太鼓』の外伝が作られた。
享年32歳。
辞世『梅で呑む茶屋もあるべし死出の山』

矢頭右衛門七教兼
やとう(やこうべ)えもしちのりかね
父長助ともに義盟に加わったが仇討ち決行前に父は病死。
享年18歳。

勝田新左衛門武尭
かつたしんざえもんたけたか
享年24歳。

武林唯七隆重
たけばやしただしちたかしげ
享年32歳。
辞世『三十年来一夢中 捨レ身取レ義夢尚同 双親臥レ病故郷在 取レ義捨レ恩夢共空』

前原伊助宗房
まえばらいすけむねふさ
享年40歳。
辞世『春来んとさしもしらじな年月のふりゆくものは人の白髪』

貝賀弥左衛門友信
かいがやざえもんとものぶ
吉田兼亮の弟。
享年54歳。

杉野十平次次房
すぎのじゅうへいじつぎふさ
享年28歳。

神崎与五郎則休
かんざきよごろうのりやす.
享年38歳。
辞世『余の星はよそ目づかひや天の川』

三村次郎左衛門包常
みむらじろうざえもんかねつね
享年37歳。

横川勘平宗利
よこかわかんべいむねとし
享年37歳。
辞世『まてしばし死出の遅速はあらんともまつさきかけて道しるべせむ』

茅野和助常成
かやのわすけつねなり
享年37歳。
辞世『天の外はあらじな千種たに本さく野辺に枯るると思へは世や命咲野にかかる世や命』

寺坂吉右衛門信行
てらさかきちえもんのぶゆき

討ち入り後に一行から立ち退いている。討ち入り時は38歳。

事件後に幾つかの家に仕えた後、江戸で没。享年83。

内蔵助は吉右衛門に『仇討ちが成功したことを浅野大学やほかの関係者にも伝えるためにも生き証人になれ』という命を託したという説が濃厚です。

 

結局、この赤穂浪士の討入りは、誰も得してないんですよね。美談のように語り継がれていますが、ホントはとても悲しい物語。残された家族を思うと。世辞とか悲しすぎますよね…。このブログで、書いてて一番悲しくなる記事でした。

江戸時代の記事を書いていて思うことがあるのですが、当時の幕府は大名や町民に厳しいイメージを持っていたのですが、“人情味”のある決断が結構多いんですよね。

歴史は知れば知る程面白い。でした。



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