慶安事件(由井正雪の乱)1651年に起こった事件の真相。

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由井正雪がきっかけで、御三家の紀伊家・頼宣まで巻き込む大騒動になった慶安事件(由井正雪の乱)を解説します!

由井正雪
由井正雪(一番左)

由井正雪が企てた謀反計画

3代将軍・家光が病死した1651年、江戸神田で楠木流軍学塾を開き、名声もあった由井正雪が自害した。

その理由を知った世間の人々は驚いた。当時の江戸には、幕府に取り潰された藩の家臣たちが浪人となって市中に溢れていました。正雪は、こうした生活に追い詰められた浪人たちを集め、幕府を転覆させようとし、失敗して自害したからです。

その計画は、まず風の強い日の夜に正雪の片腕で槍の名手・丸橋忠弥らが各所に放火し、江戸を火の海にする。その混乱に乗じて、葵紋の提灯を掲げて紀州徳川家を装い、人数を江戸城内に入れる。そして城を占領し、幼い新将軍・家綱を連れ出す。同時に正雪が、家康の墓所である駿府久能山の金銀を奪い、駿府城を占領して将軍を迎え入れる。さらに大坂・京都でも騒ぎを起こし、天下に争乱を起こそうという作戦でした。

 

計画は失敗したが幕府は方向を転換

しかし、密告者により計画が発覚。忠弥は御茶ノ水の道場で捕らえられた。役人たちは、相手が槍の名手なので、『火事だ、火事だ』と叫びたて、飛び出してきたところを捕らえたといいます。

駿河の宿で役人に囲まれた正雪も自刃し、この陰謀に加担したとして処罰された者は100人以上にのぼりました。のちの幕府は、この事件の背景には市中に溢れた浪人たちの困窮があることを知り、そこで浪人をこれ以上増やさないように大名や旗本の末期養子を一部認めることにしました。

 

紀伊家・頼宣の尋問

この慶安事件でとばっちりを受けたのが紀伊藩主の徳川頼宣でした。幕府は正雪の書き置きのなかに、紀伊家の名が挙がっていたので、その釈明を頼宣に求めることになりました。このとき、頼宣をからめ捕る取る手の者を数十人、城内に伏せさせてたといいます。尾張・水戸両家と井伊直孝らの幕閣の列座する前に、正雪の遺品の中から発見された頼宣の判物が持ち出された。これは尾張家は正雪の謀計による書であると断じた。浪人を集めて事を構えるような紀伊家ではないと断言。水戸家も謀書であろうと明言した。

そして頼宣も『さてさて、めでたいことだ』と言い放ちます。

御三家の自分の判に似せてあるからには心配ない。これが外様大名の判に似せた謀書だったなら、大騒動になるところであった。だから『めでたい』と頼宣は言ったのでした。

 

正雪が頼宣の名を密かに用いて謀反に加担する浪人を集めたのは、武芸に秀でた浪人を頼宣が多く抱えたという風聞があったからでした。頼宣の紀伊の領土の安定を図るために行った 武備充実政策がとんだところに災いの種を撒いたのでした。

 

慶安事件(由井正雪の乱)1651年に起こった事件の真相でした。





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