徳川将軍を直視することは出来なかった!?平伏【拓手礼】【双手礼】【合手礼】とは?

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武田信玄との三方ヶ原の戦いで、恐怖のあまり馬上で脱糞した徳川家康が征夷大将軍になり、江戸幕府を開き、たった2年で将軍職を息子に譲り、歴代将軍は徳川家が継承することを世に示しました。三河のヤクザ集団だった徳川家が将軍になり、諸大名はそれに平伏す。

下剋上。正しく『勝てば官軍』です。

そして将軍は諸大名に上下関係を徹底的に知らしめるために色々な手段を講じました。

今回はその色々な手段を紹介したいともいます。

まずは礼の種類を。

 

武家作法の平伏の種類

武家作法は、室町幕府が公家への対抗上、伊勢・小笠原家に命じて作らせたもの。江戸時代はこれに尾鰭をつけて武家社会の秩序維持に一役買いました。例えば平伏にも【拓手礼】、【双手礼】、【合手礼】などがあり、おでこの高さや膝前についた手の間隔がそれぞれ違いました。それぞれ解説すると、

拓手礼

同輩への礼で、頭は畳から一尺五寸(45cm)位の高さ、両手先は一尺(30cm)ほど離れている。

 

双手礼

身上の人に対するもので、頭は畳の一寸(30cm)位、両手先の間隔は6、7寸(約20cm)です。

 

合手礼

勅使や将軍には最敬礼となるこの合手礼と決まっていて、両手先をほとんど触れ合うばかりに寄せ、おでこは畳にすれすれまでに下げる。頭だけ下げるのではなく、背筋を伸ばして上体を倒すので体全体がべったり畳につく。これは諸大名であっても、将軍にはこの合手礼をしたので、普段威張り散らしている大名も、将軍も前では畳のゴミを吸うほど頭を下げさせられ、上下のけじめを痛いほど思い知らされたようです。

 

将軍に謁見

“御目見え”という公式の儀礼で、場所は城中の“白書院”という場所。ここには上段、下段ともう一つの間があります。将軍は上段の間に簾を半分垂らして座っている。この簾越しに謁見するのですが、直接顔を上げて将軍を見ることはできません。ただ、平身低頭するのみ。国主だけは老中が、安芸、薩摩、備前という風な披露をする。国主の位置は上段の次の間の中程。外様大名になると、もう一つの間の襖のところに5人位ずつ並びます。このときは何の披露もなく、城軍は着座していないこともあったようです。それでもおじぎをして、ずうっと引いていくのでした。

 

監視付きだった謁見

作法は厳格を極め、監視の“御目付”が全部見ていて、畳の縁に手がついたり、障子に脇差が当ったり、作法に間違いがあると、すぐに下城差留(出入り禁止)をいいわたされ、厳しく咎められたそうです。作法に慣れていない大名たちは、作法に詳しい大名に教えてもらっていたそうです。

諸大名はこの儀礼を通して、自分たちが臣従する立場にあることを徹底して思い知らされたようです。

 

将軍に『それへ』と呼ばれた際の作法

謁見には『お目見得』、『御前御用』など、色々な内容のものがあるが、御用で召された者が平伏していると、『それへ』と将軍から声がかかる。『近くそれへ進み出よ』という意味です。よくテレビで見る『苦しゅうない。近こう寄れ』というやつでしょうか。この時は匍匐蠢堂(ほふくしゅんどう)といって、身体を少し左右に動かして『進まんとして能わざる状を為す』のが慣礼だそうです。将軍から何かを言われた場合、元の場所に戻ってから必要な返答をする。

しかし、勝安房守(海舟)が将軍と謁見した時、『それへ』の言葉に立ちあがって進み出ようとしたので、大目付(監視役)が『シッシッ』と制したが聞かず、後で別室に呼ばれて謹慎を申し付けられたそうですが、勝海舟は憤然と抗弁し、大目付をやりこめてこの習慣をやめさせたそうです。時は幕末。江戸幕府が終わりを迎える目前の混乱期だったこともあったからでしょうが、勝海舟ならではの逸話でもあります。

 

 

女だけが見れた将軍の行列

将軍がお城の外へ出るのを“お成り”というが、このお成りを拝観するのに、男は軒下にむしろをしいて、その上に平伏していなければならなかった。しかし、女は店先に座ったまま拝観してもかまわなかった。

 

徳川政権が15代も続いた理由はこの徹底した上下関係のお陰だけではありませんが、精神的にも肉体的にも沁み込まされた上下関係は消えることはなかったようです。

その証が、江戸幕府は徳川家康が慶長8年2月12日(1603年3月24日)に征夷大将軍に任命されて幕府を樹立してから慶応4年/明治元年4月11日(1868年5月3日)に江戸城が明治政府軍に明け渡されるまでの265年間続いたということ。

血を血で洗う戦もなく、平和だったことは間違いありません。

下剋上が当たり前だった戦国時代を勝ち抜き、下剋上を起こさないように徹底した対策をとり、平和な日本を作った徳川幕府。その対策は正しかったということになりますね。

 

徳川将軍を直視することは出来なかった!?平伏【拓手礼】【双手礼】【合手礼】とは?



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