徳川歴代将軍の江戸城大奥への【惣触れ】【奥入り】【奥泊り】とは?

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江戸城は徳川幕府の中枢であり、同時に歴代将軍の住居でもありました。

その江戸城で歴代将軍はどんな生活をし、どんな時に大奥へ行ったのかを解説したいと思います!

江戸城は主に表・中奥・大奥の3つのエリアに分けることができます。

表は政治の場、中奥は将軍の住居、大奥は将軍のハーレム(将軍以外の男子禁制の正室や側室の住居)です。

 

将軍の生活形式

将軍と諸大名は同じ生活形式でした。城中の表、中奥、大奥という設計が江戸城に限らないことからみても想像がつきます。調度、使用人の数など、その質はともかく形式は大名も同じでした。

しかし、『大奥』というのは江戸城に限り、諸大名は将軍家へ遠慮して『奥向』といったそうです。もっとも内々では大奥ともいっていたようで、和歌山城の見取り図などには大奥の文字があります。奥女中の職名、階級、間取りなどは、諸大名は将軍家を真似て小型にしたにすぎません。有名な“毒見”や“中臈の御添寝”なども将軍家だけではなく、諸大名も行っていました。大奥に行くのが面倒くさいので、ほとんど顔を出さない女嫌いな大名もいたようですが、そういう役目の家来がいて、大奥行きを勝手にやめることはできなかったそうです。

 

【惣触れ】【奥入り】【奥泊り】

将軍が大奥へ入る名目は3つありました。

【惣触れ】【奥入り】【奥泊り】の3つです。この3つを詳しく解説します。

 

惣触れ

将軍と御台所は、それぞれ起床時間が定められていた。

将軍の起床は朝六ツ時(午前6時)。中奥の御休息の間で目覚める。将軍が起きたことを察した宿直者が『もう』と大声で合図する。この一言で途端に大奥が慌ただしくなる。将軍は歯磨き、洗面をし、女中に服を着せてもらう。将軍は突っ立っているだけ。

一方の御台所は朝六ツ半時(午前7時)に目覚め、お付きの御中臈から挨拶を受ける。すかさず御三の間が、『六ツ半時お目覚め、おめでとうございます』と長局向中(ながつぼねむき)に触れまわり、大奥の慌ただしい朝がスタートする。

まず御台所は風呂に入り、朝五ツ時(午前8時)には部屋に戻って、御髪を整えてもらいながら朝食。その後、洗面、口漱ぎ(くちすすぎ)をして、お召し替えをする。

朝四ツ時(午前10時)、裃姿の将軍は、御錠口を通って上御鈴廊下に入り、大奥へお成りとなる。御台所は、御年寄、中年寄、御中臈を従えて、御小座敷で将軍をお迎えし、朝の挨拶をする。将軍は、御台所と2人でお清の間で拝礼をすませ、上御鈴廊下で御目見以上の奥女中たちを謁見する。そして挨拶をうけたのちに中奥へ帰っていく。

 

奥入り

これは政務の疲れを癒す、休息をとるために大奥に入ることです。

将軍は、御小座敷でくつろぎ、茶の湯をたしなみ、干菓子や蒸菓子に舌鼓を打った。この【奥入り】はあくまで将軍の気の向いたときに行われたもので、まったくない日もあれば、日に2、3度あることもあったようです。【奥入り】の時間は、ふつう昼八ツ時(午後2時)と夜五ツ時(午後8時)です。

 

奥泊り

大奥の御小座敷で、将軍が御台所、または愛妾、側室と御寝することです。

この奥泊りには制約があり、紅葉山参拝や、歴代将軍の忌日、命日といった女性を近づけてはいけない【御精進日】が毎月10日近くもあり、その日は将軍がいかに希望しても奥泊りは認めてもらえなかったそうです。後期の将軍になればなるほど、この御精進日が増えてくるわけで、ちょっと気の毒な制約です。

 

将軍の風呂上がりの身体の乾かし方

政務を終えた将軍は、夕刻になると小姓、または奥女中をお供に入浴を行った。小姓が奉仕したのは中奥に将軍がいる場合で、奥では奥女中が世話をした。湯殿の上がり場に入ると、脇差を床の間の刀掛けにかけて、女中が着ているものを脱がせて、お召し台の上にのせる。表では、小納戸役が白木綿の筒袖襦袢(つつそでじゅばん)を着て、白木綿の糠袋(ぬかぶくろ)を7、8個用意して側に控えている。

風呂は湯殿で火を焚くことはなく、湯を運んだ沸かし湯で、それをたっぷり用意した。将軍が湯から上がると、湯殿係が糠袋で身体を洗った。顔と手と足と背中を別々の糠袋を使って洗い、同じものは二度と使わなかった。洗い終わると、上がり湯に入り、用意した別の湯を八寸径の桶ですくって背中からかけ、それが終わると将軍は上がり湯に移った。そこに白木綿の浴衣が10枚ほど用意してあり、それを将軍の身体に1枚かけては取り、次々浴衣を取り替えて、肌が乾くまで繰り返した。浴後、新しい下帯や肌着をつけるが、もちろん自分ですることなく、お付きの者がすべて世話をした。

立ってるだけで何もかも周りが世話をしてくれる。大便の後の尻を拭く担当までいたそうです。

政治面でも、将軍が表立って政治を行うということは余りなく、側近たちが幕府を動かしていた。

ただ、圧倒的トップの立場である将軍が、自分の考えだけを押し通し、暴走するよりも、政治経済を学んだ側近たちに任せている方が間違いはありません。

完全に『お飾り』的な存在であったようです。



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