絶対に外部に漏らしてはいけなかった大奥の内情。

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大奥の口外無用の掟。

『徳川実記』によると、江戸城本丸に大奥が建設されたのは、慶長12年(1607)の二代目将軍秀忠の時代。秀忠の正室・お江与の方(崇源院)が本丸から中の丸の別殿に移った時に整備されました。

秀忠は元和4年(1618)正月に、六カ条からなる『大奥発度』を定めて、奥御殿への出入りを規制しました。

享保6年(1721)4月には、『大奥女中御定書(大奥法度)』および『誓詞前書(奥女中誓詞)』によって、“表”と“裏”の境がさらに厳重になりました。

江戸時代は、屋敷奉公が嫁入りの必須条件だったようです。なかでも、江戸城大奥は江戸娘の羨望の的で、武家の娘だけでなく、町民の娘までもが大奥奉公できるように、大奥出入りの御用達商人の縁故をたどって親娘ともどもやっきになったそうです。

めでたく奥女中(御殿女中)となった娘たちは、さっそく大奥の掟を申し渡され、血判を押すように命じられました。『大奥法度』の第一条件には次のようにあります。

“女中文通之儀、祖父・祖母・兄弟・姉妹・叔父・叔母・姪・子孫迄にかぎるべく候、然れども文通これなくかなはざる仔細これあり候はば、其段年寄衆迄断りをたて申すべく候。附、宿下がりの節、親類出合之儀、同様たるべし、右、何れも年寄衆にて吟味の上、帳面にしるしおき申すべく候”

宿下がりとは、奥女中になった娘が春3月、3年目に6日、6年目に12日、9年目に16日の『休暇』をもらって実家に帰ることです。

さらに娘たちは、“奥方の儀、何事によらず外様へ申すまじき事”という『奥女中誓詞』によって、大奥の様子を親兄弟といえども漏らすことを堅く禁じられました。

数百人いる女中が、宿下がりの度に大奥のことをベラベラベラベラ外部に喋っていたら、大奥の内情を知らない国民はいない状態になってしまいますよね。そうなると、当然将軍の生活も筒抜けになってしまいますもんね。

絶対に外部に漏らしてはいけなかった大奥の内情。でした。

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