徳川家康 温和そうにみえて実は残忍?裏切った部下をいたぶり殺す。

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家康には大賀弥四郎という家臣がいました。弥四郎は頭の回転の速い男で、いつしか年貢の集計や財政の管理まで担当するほど家康からの信頼を得ていました。しかし、弥四郎には【徳川家の乗っ取り】という野心がありました。その実現の為に、武田勝頼に内通して、徳川の秘密事項を漏らし、武田家の進軍を有利に図ろうとしました。この計画は弥四郎の部下が途中で裏切ったことで露呈します。

驚いたのは家康。家康ははじめ、弥四郎の裏切りを家臣に報告されても、なかなか信じませんでした。それほど信頼した家臣に裏切られたのですから、家康の怒りは頂点に達しました。まして、家臣に身柄を売り飛ばされた家康にとって、弥四郎の裏切りは並大抵の極刑では満足がいかず、まず最初に妻子が捕らえられ磔にされ殺されました。

そして弥四郎の処刑当日。彼は岡崎の処刑場まで護送されました。体を縛られ、馬に逆さまに乗せられ、まわりでは鐘や金物が鳴らされ、遠目からはさながら縁日の祭囃子のように見えたそうです。処刑場に到着すると、弥四郎は馬から引きずりおろされ、罪状が読み上げられました。そして処刑が始まります。

最初に、弥四郎の首に板がはめられ、歩けなくなるように片方ずつ足の筋肉を念入りに切断。次に足と手の指を一本ずつゆっくりと切り取っていく。弥四郎は命乞いをしましたが、聞こえるのは罵倒する声だけでした。そして深い穴に弥四郎は首から上を出した状態で埋められます。

横には切れ味の極端に悪い竹のノコギリが数本置いてあり、

“この者罪人につき、首をノコギリで挽いても構わない”

というお触書がありました。そして処刑人たちは帰っていきます。

代わりに村人の誰かが一日中、弥四郎の首を少しずつ、えぐれるほどに切り刻んでいく。弥四郎が内通していた武田勝頼は、百姓にきつい年貢を課すことで知られていた。もし、弥四郎の裏切りが成功して徳川家が滅んでいたら…、村人の誰もが罵倒しながら弥四郎の首を切り刻みました。

激痛に耐えられず弥四郎が気絶すると、また激痛で目が覚める。拷問と処刑が1つになったこの極刑により、弥四郎は絶命するまで7日間を要したといわれています。この極刑は信長も命を狙った相手に実行し、秀吉も行っているが、この2人より穏やかな人柄であったとされる家康も、見せしめのためにやることはキチンとやっていたようです。

徳川家康 温和そうにみえて実は残忍?裏切り者をいたぶり殺す。でした。





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