徳川家康 天下人家康の間抜けで格好悪い逸話・エピソードを集めてみた。

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天下人 徳川家康の面白い、カッコ悪い逸話を集めてみました。

人間味溢れる家康らしい逸話です。是非ごらんになってください。

では、

徳川家康、ビビってウンコを漏らす。

人質生活に耐えた家康は、姓を徳川と改め、桶狭間の戦いで今川義元を失った今川家を見限り、織田信長率いる織田家と同盟を結びます。『信長は西へ、家康は東へ』これを清州同盟(織徳同盟)(1562)と言います。翌年、家康は元康を改め家康とします。今川義元から貰った『元』を捨てます。この清州同盟とよばれる契りは、信長が天下人として成り上がるほど、家康にとっては対等ではなく、従属関係に近いものとなってしまいます。

1572年、『織田包囲網』の期待の星・竹田信玄が家康の領地を侵すと、三方ヶ原で激しい戦闘が始まります。その時の戦力の差は約2倍ほどあったようです。

家康が数で劣る者が採る戦法としては下策といわれる『鶴翼の陣』で武田軍に挑みますが、信玄に見破られ総攻撃を受けてしまします。家康が頼んだ信長からの援軍は、非常に数が少なく士気も低く、佐久間信盛など戦わずして逃げ出す武将もいたようです。結局信玄の猛攻を止められなかった家康が、討ち死に寸前まで追い詰められて大敗を喫します。家康は家中きっての豪将・本多忠勝らに後を任せると、馬を駆って一目散に逃げ帰ります。

このとき、家康は恐怖のあまり馬上で糞をもらしてしまったといいます。浜松城に無事逃げ帰った家康でしたが、馬の背中が大変臭う。徳川十六神将の1人・大久保忠世はこれに気づき、

『なんと殿、せつなぐそを垂れて逃げ参られたか!』と肩を震わせたそうです。せつなぐそとは驚いた拍子に、大物・大便を漏らすことをいいます。大惨敗に失禁。あまりの悔しさに家康はそのまま部屋にこもると、茶漬けを3杯続けざまに食べ、高イビキをかいて寝てしまったそうです。

 

食い逃げして茶屋の婆さんに捕まる。

この時の家康に関して、面白い逸話がもうひとつあります。退却時、戦場に残った本多忠勝が死闘を繰り広げている最中、家康はいち早く浜松城に逃げなけらばならないはずなのに、空腹に耐えきれずに茶屋に入って一服し、小豆餅まで食べています。これは庶民の言い伝えによるものらしく、遠くで追手が見えると家康は驚き、代金も払わずに逃げてしまったそうです。しかし、すぐに茶屋の婆さんに捕まえられます。この話は浜松市中区にある小豆餅の伝説となったそうです。

この話は伝説だとしても、三方ヶ原の戦いは、家康にとって生涯隋一の大失態だったことは疑いようがありません。彼はこの屈辱を忘れないために、『徳川家康三方ヶ原戦役画像』という不気味な自画像を描かせ、側において戒めたそうです。

 

つくり馬鹿

家康には他にも間抜けなエピソードがあります。

関ヶ原の戦いの前哨戦『会津攻め』で、出陣したとき采配を忘れ、そのことを家臣に注意されると、付近の竹林から棒をもってこさせ、『上杉のごとき、これで十分!』と叫んだこともあるようです。

はたまた馬術自慢の武将が、馬を駆って曲芸さながらに橋を渡っていくなか、家康だけは馬を降り、家来の背中におぶさって渡ったことなどを嘲笑された話もあります。

秀吉が家康の家臣と話をしていた時、『最近、家康は太り始めて、自分で帯をすることもできなくなりました。女房や小性らが2人がかりで帯をしめる。1人で便所にも行けない。大小便も自分で出来ない。このようなありさまではまったく【ぼんやりの鈍物】とでもいいたくなる』と不満を漏らす。

秀吉は『そもそも利口な者というのはどのような者をいうのか。お前たちが“バカ者”と噂する家康は、立派な武将であり、関東八カ国の大名でもあり、金銀もワシより不足しない蓄えがある。家康の【つくり馬鹿】は、お前たちが真似ても一生できぬことよ』と語ったそうです。

 

もっとも、秀吉が【つくり馬鹿】という言葉をどこまで本気で使っていたのかは分かりませんが、数々の間の抜けた逸話のどこまでが、“天然”のものであるかも分かりません。

 

恐怖のあまり脱糞。食い逃げで捕まる。家臣に嘆かれる。家康の人間味溢れる面白く間抜けな逸話でした。

徳川家康 天下人家康の間抜けで格好悪い逸話・エピソードを集めてみた。でした。





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