織田信長 宣教師の巨大な黒人奴隷【ヤスケ】を家来に登用する。

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1581年、宣教師ヴァリニャーノは黒人を連れて信長を訪ねた。

信長は大変驚いた。なぜなら黒人の肌の色が黒く、色白の自分とあまりにも違っていたから。宣教師は『生まれた時からそのような肌なのです』と説明するが、信長は『塗っているに違いない』と聞かない。

早速、入念に体を洗わせたが、いくら洗っても肌は赤ぎれて、より黒色が強調されるばかり。信長はようやく世の中にはそうした人間がいることを理解すると、その黒人を“ヤスケ(弥助)”と名付けて京都の町を連れ回したそうです。

信長は珍しがって連れ回しただけなのですが、黒人のヤスケを見た人々にとってはインパクトが強烈だったはずです。当時の町の人々の反応は分かっていませんが、多くの人々は、自分たちと違う外国人が“いる”という認識すらなかった時代。さぞかし驚いたことでしょう。

しかも徳川家康が国内を統一し、江戸時代となって鎖国する以前の話です。昔話に出てくる赤鬼・青鬼は白人を指したものといわれていますが、当時の人々が黒人を見て、何に例えたのか気になるところです。

信長の家来となったヤスケは、本能寺の変でも信長に仕えており、信長とともに奮闘しましたが明智光秀に捕らえられ、『ヤスケはわけもわからず戦っていただけ』と放免された後、消息不明となります。もし、信長が本能寺の変で死んでいなければ、黒人武将ヤスケとして活躍する文献を見ることが出来たのでしょうか。ちなみに

『十人力の剛力』という記述があるようで、身長は約182cmあったとされています。当時の平均身長が150cm、信長の身長が160cm。もしかしたら、日本最強の武将になっていたかもしれませんね。

現代でいうとボブ・サップみたいな感じですかね。彼は身長200cm。

本能寺の変の後のヤスケの消息について、消息不明とありますが、これは現存する資料がないからです。

 

しかし、TV番組『世界ふしぎ発見』では、ヤスケのルーツを探しに出生地とされる16世紀に“モザンビーク”と呼ばれていたモザンビーク島へ取材に行っており、そこで現地のマクア人の男性は“ヤスフェ”という名前が比較的多いことから、ヤスケはもともと“ヤスフェ”という名前で、日本ではそれが訛って“ヤスケ”と名付けられたのではないかという面白い仮説を紹介していました。

また、マクア人の間では、日本の着物とよく似た『キマウ』と呼ばれる衣装を着て踊る祭りが昔から伝わっていて、ヤスケは最終的に故郷に戻って、日本の伝統文化を伝えたのではないかとも語られていました。それを真実だと証明する証拠は一切ありません。ただ、なかなか面白い仮説だと思います。

ただ、もともとヤスケは奴隷。多分返してもらえないと思います。

織田信長 宣教師の巨大な黒人奴隷【ヤスケ】を家来に登用する。でした。



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