徳川家康 ドケチ将軍の莫大な財産、残した遺産は総額いくらあったのか。真実に迫る!

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2018年最新版。

 

ドケチで有名だった徳川家康の莫大な財産、そして死後残した遺産は総額いくらだったのか、そしてその遺産は一体どうなったのか?お金大好きな人には大変気になる話ですね。

私MAKOがない知恵を振り絞って徹底解明していきたいと思います。

 

(金銀などの財産にまつわる話で、刀や貴重品の相続品はこの記事では取り扱いません。あくまで“カネ”のみの財産の話です)

私の計算により判明した財産は、ページの一番下に載せます。

 

 

真実と虚偽

まず、家康の生前の財産は幾らだったのか?

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康とづづく天下人の時代は、日本のゴールドラッシュの時代でもありました。金鉱が日本各地で発見され、時の天下人は日本一の金持ちでした。

 

徳川幕府の祖。征夷大将軍 徳川家康。

京都の伏見にいたとき、伏見城の二階に金銀を貯蔵していたそうですが、金銀の重みで二階が潰れた(イエズス会の宣教師がローマに送った報告書の中に記載)という逸話を持っている家康。

200万両、400万両、600万両など諸説あります。ネットで色んな情報を見ていると、どの情報が正しいのか、全く分からなくなり混乱してしまいます。

まず、ネット上に存在する、『徳川家康の財産・遺産』は家康の生前・死後の流れなどを一切知らずに、ただ誰かのブログをコピーした中身のない、ただのコピペ情報で溢れています。殆ど参考にもならない記事ばかり。

そこで、私が色んな本を読んだ上で、もっとも正しいであろう財産・遺産の額を調べたいと思います。

どうすれば正しい家康の財産の額が分かるのか。

 

私が思いついた方法。

それは『相続した額から逆算する方法』です。

家康の遺産は、二代目将軍の秀忠および、九男の義直、十男の頼宣、十一男の頼房(のちの徳川御三家の尾張・紀伊・水戸)に分配され、一部を久能山に残したそうです。

 

家康の息子たち

なぜ家康には息子が11人いたのに、遺産を受け継いだ息子たちがたった4人なのか。その理由は、

長男・信康  自害
次男・秀康  死去
三男・秀忠  生存○
四男・忠吉  死去
五男・信吉  死去
六男・忠輝  改易
七男・松千代 死去
八男・仙千代 死去
九男・義直  生存○
十男・頼宣  生存○
十一男・頼房 生存○

と4人しか生きてなかったから。

ではこの4人に分配された遺産を計算すれば、家康の残した財産が幾らだったのか判明します。

 

まずネットに載っている家康の財産が、正しいのか検証したいと思います。

駿府御分物帳

誰かのブログに駿府御分物帳(すんぷおわけものちょう)  元和二年(1616年)4月17日、家康が没した際の遺品形見分けを記録したものが載せられていました。その文献によると、

秀忠には小判3万枚、銀1万3,000貫

義直には金1万8,949貫、銀10万1,333貫、小判273万4,944両(尾張家本目録)

頼房には銀1万2,050貫、小判103万4467両(金不明)(水戸家本目録)

とあります。頼宣(紀伊徳川御三家)の相続分がありません。紀伊徳川家の場合には、そうした台帳に類するものが、現状では確認されていません。これは先の『駿府御分物帳』が、単なる台帳ではなく、家康の遺品を間違いなく受け取ったことを示す『受取帳』の役割を果たしており、駿府城から遺品の移動をともなったのは尾張家と水戸家の場合のみだったのでこの受取帳が作成されたと考えられています。家康の遺産が分けられた元和2年(1616)から同4年(1618)にかけて、同じ駿府におり、家康の遺品を移動する必要がなかった頼宣の場合には、こうした台帳そのものが作成されなかった可能性が高いとみられています。
義直(尾張徳川御三家)と同格なので同額という話もあります。なので頼宣も秀直と同額で計算してみます。

このブログでは、1両=10万円。銀1貫=1000匁。 銀50匁=1両。
江戸時代の金銀の公定相場は金銀で1:10だったので、金1貫=1000匁。 金5匁=1両。で計算しています。

上記を全て足すと総額いくらになるのでしょうか。

合計すると、

銀22万7,716貫。 銀1貫=1000匁。50匁で一両計算で455万4320両。

金3万7,898貫。金1貫=1000匁。5匁で1両計算で757万9600両。

小判650万4355両

合計1863万8275両

 

1両10万円で換算すると1,863,827,500,000円(1兆8638億円)

秀忠  29万両で290億円。

義直 855万両で8550億円。

頼宣 855万両で8550億円。

頼房 128万両で1270億円。

天文学的数字……。計算は合ってるはず……。というか、、上記の誰かのブログの駿府御分物帳、両の桁ひとつ間違えている気がします。銀の『貫』表記も、多分『文』の間違えだと思います。金も本来は両・分・朱単位なのでの貫表記は謎です。私が間違えていたらすいません。

しかし、大石慎三郎(東大卒・元学習院大学名誉教授・元徳川林政史研究所長)著『徳川十五代』のよると、紀伊の頼宣は幕府に10万両借り入れたとあります。その他文献にも、頼宣は兄の二代将軍徳川秀忠より銀5千貫(10万両)(二千貫とも)を受領し、これを元手に1621年(元和7年)より城の改修と城下町の拡張を開始した。とあります。家康より遺産として855万両(8551億円)配分された頼宣がなぜ借り入れと、秀忠からの援助が必要だったのでしょうか。援助してもらわなければいけないということは、財産がないということ。頼宣が一瞬で遺産を使い果たしたことになります。上記の駿府御分物帳は元和二年(1616年)に作成されたもの。頼宣は1616年に家康の遺産を相続して、和歌山城の改修を始めた1621年の5年間で、全部使った?家康が手元において可愛がった頼宣(紀伊徳川御三家)の金銀の分配記録である紀伊家本目録がない。ということは頼宣だけ遺産が分配されなかった?まずあり得ない。それを踏まえると、上記の駿府御分物帳を元にした遺産計算は信ぴょう性がありません。

 

大石慎三郎著『徳川十五代』にはこうも記されています。

『寛文8年(1668年)に、幕府から10万両を拝借していた。家康が頼宣に遺した30万両を費消した上での借金である』とあります。これを元にすると、頼宣に分配された遺産は30万両。

 

これを裏付ける資料があります。久能山御蔵金銀請取帳です。

久能山御蔵金銀請取帳

元和2年(1616年)4月、家康が死んだあとに久能山御金蔵に残していた遺金は約200万両(約2千両入の金の箱470箱、約10貫目入の銀の箱4953箱余)となっている。同年のうちに家康の遺言に従って、尾張・紀伊には各30万両、水戸には10万両(一説には15万両)が配分された。(久能山御蔵金銀請取帳より)

配分後の残りが130万両。これを久能山御金蔵に保管したとあります。

この記録を元に、財産を計算したほうが信ぴょう性があります。

ちなみにこの200万両は、駿府城に蓄えていた家康の遺産ですが、元は秀吉が隠居城として住んでいた伏見城に溜めていたものを秀吉の死後に家康がかっさらったものと、所有する金山からの収入によるものだそうです。

ということでまずは200万両。

まずは?とは?

実は家康の財産は2個所に保管されていたそうです。1つは駿府城。もう1つは江戸城。

駿府城の財産は上記の久能山へ。では江戸城の財産はどこへ行ったのか調べてみましょう。

駿府城に隠居した家康は、息子である二代目将軍 秀忠に『お前に財産をやるわ』と伝えたところ、『私もたくさん持っているから要らない』と断られたそうです。そして『贅沢はするな、国の為に使え』という言葉も残しています。ということは、秀忠に要らないと断られた江戸城にあった家康の財産は、国の為に使う、国庫に入った。幕府の財政になった。と推測できます。そもそも、色んな本を読んで思ったのですが、将軍たちの財産=幕府の財産のような気がします。

『二代目将軍の秀忠の時代は40万両の赤字で、江戸城の金庫には360万両あった』

『二代目将軍の秀忠が死去したとき、江戸城の金庫には360万両あった。秀忠の時代は40万両の赤字だった』

という話があります。これを元にすると、江戸城にあった家康の財産は400万両になります。

ということは、駿府城の200万両、江戸城の400万両。合わせて600万両という計算になります。

 

家康の財産・遺産

家康が生前遺した財産は

 

約600万両

これはあくまで私の推測です。

異論は認めます!笑。

ただ、どのブログよりも、限りなく真実に近い、信ぴょう性のある記事だと思います。

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計算や、歴史の解釈が間違えている場合はご連絡ください。

徳川家康 ドケチ将軍の莫大な財産、残した遺産は総額いくらあったのか。真実に迫る!でした。





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