徳川家康 征夷大将軍の先祖はスケベな旅坊主『徳阿弥』

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『鳴かぬなら 鳴くまで待とう ほととぎす』

徳川家康といえばこの一句です。家康の生涯を象徴したものとして現代に定着しています。

『織田がつき 羽柴がこねし天下餅 座りしままに食うは徳川』

こんな面白い歌もあります。自他共に認める『忍耐の人』徳川家康。その正体に迫ってみましょう。

 

1543年、三河で生まれた家康には、実は旅芸人の血が流れています。祖先は“徳阿弥”といい、諸国を旅する時宗の僧でした。


画像は徳阿弥改め松平三郎親氏(次郎三郎とも)

徳阿弥など時宗の“○阿弥”系の僧は諸芸に通じ、歌・踊りなどで人々を楽しませるのが仕事でした。今でいえばお坊さんの格好をしたエンターテイナーです。日本の伝統芸能となった『能』を完成させた“世阿弥”もこのエンターテイナーの流れをくむ筋で、こちらは非常に有名で、室町幕府にも優遇されたが、徳阿弥は全く売れなかったようです。

まったく売れない旅芸人の徳阿弥の生活は当然厳しかった。当時の芸人の身分も最下層に位置し、ほとんど乞食と変わらなかったようです。

その後、徳阿弥は松平氏(徳川氏)の発祥地・松平郷の基礎を築いた人物とされる松平信重の婿養子となり、還俗して松平三郎親氏(次郎三郎とも)と名乗ったという。

祖先の影響からか、家康は当時、食べることが野蛮とされていた四足の獣を食すことに何の抵抗もなかったようです。

家康が『毎年正月にウサギを食べた』、『病気をウサギの肉を食べて治した』という“ウサギ喰い伝説”は、徳阿弥が正月にウサギの肉を食べて以来ラッキーが続いたという逸話からきています。

 

徳阿弥は『その辺によくいた無銭旅行者で、ドスケベだった』と言われています。

1420年、徳阿弥が放浪の末に辿り着いたのが三河の松平郷です。彼は当地の有力者・松平太郎左衛門の家に落ち着いていた。初めは世間話などをしていたが、どうも様子がおかしい。実は松平家の後家とできてしまい、孕ませてしまった。徳阿弥の勢いは止まらず、今度は隣町の後家を好きになって泊まり込み、彼女まで孕ませたようです。

最初の後家との子は、家康につながる血筋となり、二番目の子は、家康に大変信頼される譜代大名の酒井氏となりました。

しかし家康は、この祖先である徳阿弥の素性に悩まされることになります。架空の祖先を捏造した秀吉ほどではないが、家康も同じように『ワシは源氏の子孫』や『実は新田義貞の子孫』と主張しています。

そして家康はお抱えの学者に家系図の操作を頼んでいます。当時の戦国大名にとって、家系図の操作・捏造は当たり前の『工夫』でした。

本田豊著『戦国大名と賤民』によると、刈谷市などの地方に残る民話では、庶民は家康のことを『素性の知れない正体不明の方が天下を治めている』と思っていたようです。徳阿弥の生没年は不明。そんな物乞いと変わらない徳阿弥が居座ることのできる松平家。

豊臣秀吉と同じく、天下人・徳川家康のルーツとしてはあまりにも怪しく、隠したくなるのも道理かもしれませんね。

徳川家康 征夷大将軍の先祖はスケベな旅坊主『徳阿弥』でした。



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