豊臣秀吉 黄金の茶室をつくるほど茶を愛した理由とは。

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茶人としても知られる秀吉。

戦国大名の多くは茶道を好み、茶は血生臭い修羅場を離れ、気持ちをあらためて一服する場所でもありました。

礼を尊ぶ静謐な茶室は、心が洗われる空間でもありました。

分かりやすく言うと『リフレッシュする場所』だったということです。

秀吉は持ち運べるようにした黄金で塗られた改造茶室もつくりました。

茶室に部下を招き、謀略を練る密室としての役割もはたし、政治としての茶の美味も味わっています。

この黄金の茶器も使ったのでしょうか。

 

秀吉は派手な茶会を開くことを好みました。

何度か開いた仮装茶会(名古屋城の仮装茶会が有名)では、参加する武将たちに、わざと身分の低い者の格好をして参加するように通達します。秀吉自身も瓜売りの姿で参加したと伝えられています。武将たちも喜んで通達に応じ、徳川家康は秀吉と同じく瓜売り、伊達正宗は山伏に扮して参加したそうです。

1587年に開かれた北野の大茶会は、10日間にわたって開催される大規模な茶会でした。

『茶好きは集まれ。わしが茶をたててやる』

秀吉の大号令のもと、花盛りの場所で草木を愛でる者共が一斉に集まりました。武士とは限らず庶民の参加も許されており、その数は803人といわれています。太閤秀吉の茶を待つ人々。次から次へ茶をたてていく秀吉。

千利休・津田宗及・今井宗久という時代を代表する3人の茶人と共に4人で茶をたてても、一人当たり最低200人はさばき続ければならない。熱湯を注ぐ、抹茶を入れる、掻き回す、礼を尽くす。掻き回す。

ところがこの大茶会、この日限りで中断となっていしまい、再開されることもなかったようです。
理由は『肥後で一揆が発生し、秀吉が機嫌を損ねたから』というのが最も有力な説ですが、『秀吉の自己顕示欲が一日で満たされたため』や『疲れたから』など、秀吉らしい気まぐれな説もあります。

その後秀吉は、その大茶会に参加した、当代きっての名茶人・千利休を殺しました。

堺の豪商の1人であり、政治に対する発言力も強かった利休。あるとき、利休が大徳寺の山門に自分の木像を設置したことが、秀吉の怒りを買ってしまった。

秀吉は『ワシも歩く山門に、木像が見下ろすように立つ。利休はワシよりも偉いのか』と怒り、すぐに利休に切腹命令が出されました。

利休の弟子たちによる嘆願が集められましたが、覆ることはありませんでした。やがて利休は自害し、斬られた首は晒されました。さらに問題の木像が取り外され、今度はそれが一条戻橋で磔にされました。

人ではなく木像を磔にしたのは、有史以来初めてといわれ、秀吉の怒りの深さが伝わってきます。
実はこの事件、大変多くの謎を含んでいます。

木像の件はいいがかりに過ぎず、茶人・利休の発言力が大きくなったため、これを排除しようとした石田三成ら反利休派の陰謀だったとする説や、利休が茶器の目利きを不当に行い、高値で売るなど詐欺商法をしていた疑い説や、秀吉の毒殺容疑説、秀吉が利休の愛娘など諸説あります。

利休の愛娘説とは、例によって秀吉が利休の愛娘を手込めにしようとして断られた“美女狩り失敗説”のことです。『娘をやれば、私の地位がそのために築かれたものだと思われる』と言って秀吉の要求を退けたといわれています。これが直接的な原因ではないにしろ、これも関わっている可能性がある。秀吉の普段の行いをみるとそう感じてしまいますね。

なににしろ、利休の死の真相は謎で、今に至ってもはっきりしていません。

私は堺市在住。利休自害の理由が不当な目利きを行い、高値で売る詐欺商法でないことを祈っています。

豊臣秀吉 黄金の茶室をつくるほど茶を愛した理由とは。でした。





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