豊臣秀吉 戦上手な秀吉。得意な戦法は『兵糧攻め』だった。

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秀吉の得意とする、代表的な戦術は『兵糧攻め』でした。

有名なのが『三木の干殺し』と『鳥取の飢え殺し』です。

三木の干殺し

1580年、秀吉は織田信長に逆らった別所長治を討つために、三木城を包囲します。

敵軍の兵糧は残りわずか。籠城している兵の数は8000人。飢えに耐えながらの必死の防戦でした。

毛利氏が別所に救援を寄越そうとしますが、秀吉が次々と砦を落としたことで救援の望みは絶たれてしまいます。

やがて兵糧が尽き、閉じ込められた人々は雑草やぬかを口にし、次に牛や馬、鶏や犬を殺して食べ、飢えをしのごうとしました。しかし、三木城は1年半もの長きに亘り兵糧攻めを受け、既に城内では数千人が餓死しており、最後まで生き残った人々は溢れる死臭のなかで、死んだ人々の傷んだ肉を刀で刺して食べたといいます。

秀吉は完全な戦意喪失にこだわりました。厳重に包囲した三木城の周囲で、たくさんのかがり火を焚きました。

『深夜でも真昼のようだった』と『播磨別所記』に記されているように、秀吉は睡眠すら許しませんでした。

一方、姫路城に戻った秀吉は茶会を開き、つかの間の休息をとります。

 

鳥取の飢え殺し

鳥取の飢え殺しとは第二次鳥取城攻めの別称。「鳥取の渇え殺し(鳥取の渇殺し)」とも。三木城攻めの翌年、毛利家の吉川経家が信長に反旗をひるがえし、3000人の兵とともに鳥取城に立て篭もります。秀吉は鳥取周辺の兵糧を時価の2倍という高値で買い取ることで、周辺の兵糧を買い占めます。そして城の周囲12キロを柵で囲み、完全に封鎖します。川にも杭を打ち、輸送路の封鎖もおこないました。

経家は絶望的な状態に陥り、そしてあっという間に兵糧が底を尽きます。人々は木の実や皮を食べ始め、そして4カ月が過ぎます。

『餓鬼のごとく痩せ衰えた人々が、城の柵へもたれかかり、悶えている。「助けてください」と叫んでいる。阿鼻叫喚の悲しみ、なんと哀れなことか。目もあてられず』と『信長公記』にあります。

鉄砲隊に撃たれた者がいれば、『争って捕まえて食い尽した』というから悲痛極まりない光景だったようです。

こうした兵糧攻めは秀吉がつねづね自慢していた戦術でした。無傷で戦に勝てる戦法ですが、生き残った人、それを見ていた兵士の心を狂わせる恐ろしい戦術でもあります。

そして秀吉は姫路城に戻り、茶会を開き、優雅なひとときを楽しんだそうです。茶人としても有名な秀吉。戦で汚れた心を洗うために、リセットするために茶を愛したのでしょうか。

豊臣秀吉 戦上手な秀吉。得意な戦法は『兵糧攻め』だった。でした。





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